「心の和室の襖はビリビリ」

古賀裕人のブログ

知的、あるいは感情的なお尻の拭き方について

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 「常識」を語る上で欠かせないのはやはりウンコの仕方であるし、ケツの拭き方である。


 私たちは様々な常識に縛られて生きているが、それらは往々にして暗に示されるものであるし、時代や地域、あるいはコミュニティによってやや細分化された異なる“常識”があるので、しばしば言われるのは「人の数だけ常識がある」あるいは「あんたの常識=世間の非常識」というような諦めにも似た嘲笑である。


 しかしながら私たちは私たち自身の身の安全と豊かで実りある生活を守るために知恵をつけ、国家を形成し、法を整備して来た。


 そしていつしか「安全に暮らしたい」という欲求はその精神性を高めていき、ついには「俺様が世界のルールブックだ」というところにまで行きついてしまった。


 ところで多くの人々が勘違いをしているのが、精神的な発達、あるいは知的生命体としての進化とさえ呼べるようなパラダイムシフト(もちろんそれは人類全体を巻き込む規模でも、私たち一人ひとりの内的な宇宙に限定された規模においても起こり得る)というものは不可逆的かつ直進的であるという幻想である。


 例えばファッションの世界では「流行は繰り返す」というのが定説になっているようであるが、精神的な発達や知の発展についても同様のことが言える。


 何につけ大切にしたいのは「似ているけれど少し違う」というポイントである。


 ドイツの建築家が遺したあまりにも有名な言葉を借りるまでもなく、私たちは同じ誤ちを何度も繰り返しながら、それでも前回までとは明らかに違って見える“些細なこと”を懸命に(あるいは賢明に)捕まえながら次のフロアへと進んでいくのである。


 知見の蓄積だけでは事足りないのは、私たちが知的生命体であり、且つ感情の動物「でもある」からである。


 もしも私たちに感情というものがなかったら、と考えてみたことはあるだろうか。


 ただし、多くのSF映画が描いて来た通り、私たち人類に(他の知的生命体がこぞって羨む)固有の価値があるとしたら「感情がある」の一点突破である。


 私たちはこの広い大い宇宙の中で何の因果か感情という極めてユニークなスキルを獲得し、その働きによってテクノロジーを発展させ、絵を描き、漫才を楽しんできた。


 そして、「私とあなたは違うんだ」ということも、少しずつではあるが分かってきたような気がしてきている。


 しかし何事においても過渡期というものは存在するし、して然るべきであるし、なんなら「世界には過渡期しか存在しない」とも言える。


 現在私たちが身を置くこの時代、この状況は、とても多くの事柄の過渡期が極めて複雑に重なり合った状態であるように体感されるであろう。


 自然科学に対する常識、資本主義に対する常識、人権意識に対する常識、人体と健康に対する常識、発達と教育に対する常識、テクノロジーに対する常識など、私たちは今、様々な分野に対して向けてきた「内なる常識」を変革すべきタイミングの上に点在している。


 例えば「本家」や「分家」という言葉を聞いたことがあるだろうか。


 そう、令和においてはそんな感じなのである。


 地方ではあまりにも日常であり生活の一部である「本家/分家問題」が、都市部の特に若年層においては既にその存在さえ認知されておらず、概念そのものが消失しているのである。


 しかしそのような事態は日常生活において特段意識されない。


 私たちは普段そのようなことを考えない。


 私たちは同じ日本人を相手取ったらば「同じような見た目をしているのだから同じような価値観の下に暮らしているのだろう」と考える。


 しかし実態はどうか。


 私たちは一人ひとりが異なる価値観の下に暮らしており、内包する文化も、他者へと振りかざす常識でさえも根本から異なる存在なのである。


 それが最も顕著に表れるのが「ウンコの仕方とケツの拭き方」である。


 これは比喩でも何でもなく、ウンコの仕方そのもの、ケツの拭き方そのものの話である。


 私の内には「ウンコはこうするもんだ」「ケツはこう拭くもんだ」という極めて根源的な常識があり、ついには「自分のウンコの仕方/ケツの拭き方こそがグローバルスタンダードである」という錯覚にさえ陥っている。


 あなたもそうでしょう。


 あなたもあなたの「ウンコの仕方/ケツの拭き方」がとても一般的なものであるかのように感じられていたでしょう。


 私たちは自己正当化の化け物であるのでそれも仕方のないことなのだけれど、少し冷静に考えてみれば「もしかしたら私の仕方は特殊かもしれない。少なくともその可能性はある」というところにたどり着けそうなものではあるのだが、思い込みとはげに恐ろしきものである。


 だってあなた、自分以外の人がウンコしているところを見たことがありますか?


 自分以外の人がケツを拭いているところ見たことあるんですか???


 もしないのであれば、どうして自分の仕方が一般的なものであると判断されたのか。


 まさかこの期に及んで「常識的に考えて」なんて……


 言わないですよね?常識的に考えて。

 

 

 (2020-03-11)

 

おまけ

 

私のトイレットペーパーの取り方はこう↓

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しかし世の中にはこういった取り方をする人もいる↓

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あなたはどっち派かな?