「心の和室の襖はビリビリ」

古賀裕人のブログ

なりたかったのは、あるいは優しい独裁者

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 子どもの頃から捻くれていた。


 友人たちが仮面ライダーに憧れている横で、私は没個性的なショッカーたちにシンパシーを感じていた。


 同級生が「モーニング娘の中で誰が一番好きか」について大激論を交わす傍らで、私は平山あやの勝気な眉頭に恋をしていた。


 教師に「勉強しろ」と言われればアルバイトに精を出し、親に「バイト頑張ってるね」と言われれば熱心に勉学に励んだ。


 恋人が和食派であれば私は毎日ハンバーガーを食べ、親友がミスチル派であれば私はRage Against the Machineを繰り返し聴いた。


 私がキュウリに蜂蜜をかけてもキュウリはメロンにならなかったし、アボカドにワサビ醤油をかけたってマグロの味はしなかった。


 私はそうやって昔から心底捻くれていて、そして誰よりも優しい人間になりたかった。



 「人生は選択の連続だ」と誰かが言った。


 私も全くその通りだと感じるが、いま振り返ってみればそこに選択の余地があったとも思えない。


 例えば進学先の高等学校を選択する際に、私にはどれだけの選択肢があっただろうか。


 恐らくは学費や学力、自宅からの距離によって半自動的に候補が絞られたことだろう。


 そして残されたほんの数校の中から、私は“自身の好み”に合わせて最終的な志望校を決定した訳であるが、果たして“自身の好みを自身で選択した”という手応えが、今現在、私の中に在るだろうか。


 私たちは「好き/嫌い」によってほとんど全ての事柄を処理しているが、一方で自分自身の「好き/嫌い」が“どこからやって来たものなのか”を意識することは殆どない。


 それは私たちの心の中に「無意識」というものが存在していて、ほとんど全部の事柄がそこで処理されているからであるが、では今更になって自分自身の心の中がどのような経緯を以って現在のカタチに至ったか、という問題をわざわざ掘り返して検分するだけの心の強さを私たちは持ち合わせていない。


 ところであなたには親友と呼べる存在が居るだろうか。


 私に言わせれば、無意識こそが真の親友である。


 彼ら(彼女たち)はいつだって私たちの中で誰よりも真摯に私たちの一番深い部分に寄り添い、私たちのために(文句のひとつも言わず)働いてくれているのだ。( そのような献身に対して私は1セントたりとも報酬を支払わないのにも関わらず、彼らは労働者組合にさえ未加入である。果たしてそのようなことがあり得るだろうか。)


 さて、私は抹茶味のアイスクリームや、右の長距離打者、それに少しゆったりめのジーンズやロックミュージックが好きなのだが私はその根源的な理由を知らない。


 もちろん“理由”は説明できる。


 しかし、その理由を説明することができない。


 私たちは極めて不器用な生き物であり、限りなく無知な存在である。


 自分が好きなものひとつ、マトモに説明することができないのだから。



 自分の意外な一面を発見してときめいたり、あるいは落ち込んだりすることがある。


 平時そのようなことはあまりないが、例えば最近のような非日常の世界に迷い込むとそんな体験をする場合も出て来るだろう。


 意識的に外出を控えて、なるべく家の中に閉じこもっている、という経験は、特に問題なく青年期を過ごした一般庶民においてはほとんど未体験のことであったろう。


 そのような状況の中で、「え、俺ってこんなことで不機嫌になるの?」「え、私ってこんなことにムカッとするの?」という初めての体験をするに至った諸君も多いのではないかと推察する。


 あるいはそれまでは気にならなかった旦那の生活音をやたらと煩く感じるようになったりだとか、気にしたこともなかった隣近所の人間の倫理観に想いを馳せるようになっただとか、例えば自分の行動が他人から見て非常識的であると非難され得ないかどうか気にするようになっただとか、そんなような「自分自身の中に生じた小さな変化に気がついた」ということも有り得るだろう。


 私たちの“生存本能”というものは案外優秀で、自分の身が危険に晒されている場合においては様々な感覚が敏感になり、こと外界における多様な分野・領域に対する取捨選択の意識が芽生えるものである。(もちろん、無意識下で。)


 つまり私たちは私たちの知らぬ存ぜぬ領域において私たち自身の命を守ろうと各々が一生懸命に奮闘をしている訳である。


 その結果が、左記の小さな変化群である。


 私たちの心の中には茶碗のようなものがあって、そこには日々、ストレスという名の白湯が注がれ続けている。


 そして白湯が茶碗の容量をオーバーすると人は“キレる”訳であるが、茶碗の大きさは人によって異なる上に、白湯の量や勢いも十人十色である上に、さらに言えば“そもそもそこに茶碗とそれに注がれる白湯があることにさえ気付いていない”という者も居るので人間の社会は面白い。


 そんな訳で私たちのストレス耐性には個人差があるのだが、もちろんのこと平時と有事ではその耐性も変化するのだから厄介である。


 例えば「自分は割とストレスに強い人間である」と思っていても、もしかしたらそれは平時において発揮される傾向であって、有事におけるストレス耐性は極めて低いタイプであるかもしれない。


 例えば「私はめっちゃ豆腐メンタルなんですぅ〜」と思っていても、実は有事に際しては案外いつもと変わらず生活できちゃうタイプかもしれない。


 自分の意外な一面に出会うのが相対的には有事の際なのは、私たちがいつもと違う行動をとる時、私たちはいつもの自分ではいられないからである。



 3大欲求が極めて正確に満たされるのは「支配欲」と「独占欲」も同時に満たされている場合に限ると私は声を大にして言いたい。


 食欲。


 おにぎりがひとつ在って、それを食べて食欲を満たすためには「そのおにぎりが反抗的ではない」ということと、「そのおにぎりは自分のものである」ということが同時に求められる。


 もしもおにぎりが反抗的であったら、おにぎりは私に食べられることを全力で回避しようと必死にもがくであろう。そして、万が一には私の手を逃れ、おにぎり氏は自由を手にすることになるであろう。


 それでは、私の食欲は満たされぬ。


 もしもおにぎりが私自身の所有物でなければ、私はまずそのおにぎりを自分のものにするために交渉や、あるいは窃盗をせねばなるまい。そして、万が一には私はおにぎりの入手に失敗し、禁固刑に処される未来が訪れる場合もあるだろう。


 それでは、私の食欲は満たされぬ。


 性欲にしても睡眠欲にしても同様である。


 女を抱くのならば従順な女を自身の管理下にある部屋で決して反抗的ではないコンドームを装着して抱きたいし、スヤスヤと眠るのであれば自身の眠りの主導権を他者に握られる訳にはいかないのだ。


 そのように考えてみると、私たちにとって重要であるのは、3大欲求などよりも、よっぽど「支配欲」と「独占欲」の方なのではないか、と考えることを可能にするための準備が整う。


 つまりは前提条件というやつだ。


 私たちは何につけてもそれを支配し独占することで、初めて欲求というものを真に満たすことが可能になるのである。


 では私たちにとって最も重要であるものは何か。


 私たち自身である。


 つまり私にとっての私、あなたにとってのあなたである。


 こう考えてみて欲しい。


 「私は私自身を支配し、独占することが出来ているか」


 私は私自身の支配権を他者に委ねていないか、あるいは他者からの盗難に遭っていないか。


 私は私自身を独占することができず他者からの介入を受けていないか、あるいは自身がそれを望んでしまってはいないか。


 そのように問うてみれば、自分以外の誰かを支配し独占したいと願う心がいかに不健康で歪んでいるかが分かるだろう。


 言うまでもなく、おにぎりは、おにぎり自身のものである。

 

 

(2020-04-29)