窓の外のツツジ、あるいは机の上のマグカップ
この世には極論か暴論しか存在しないと言って差し支えない。
例えば相反するテーゼは相対的に極論であり、片一方からの景色においては対岸がアンチテーゼとなる。
そこで両者をぶつけ合うとどうなるかというと、偶然にもその場に神の目を持つ賢者が居合わせた場合にのみ、ジンテーゼという名の暴論が誕生する。
いわゆる、正・反・合、というやつである。
問題は、ジンテーゼというものがテーゼとアンチテーゼよりもひとつ上の次元に在るという点にある。
私たちは私たち自身が存在する次元よりも低い次元に在るものを知覚することは出来ても、高い次元にあるもののことは知覚出来ないようになっている。
そういった意味において、例えばテーゼに陣取っている者、アンチテーゼに陣取っている者たちにとっては、ジンテーゼの領域というものは認知の外側に在るものなのだ。
だからこそ、意見をぶつけあっている者同士が、真に理解し合い、手を取り合って、より高い次元へと到達する、という場面に出会う機会はほとんどないと言って良い。
賢者からもたらされるジンテーゼが理解不能のノイズにしか感じられない者たちは賢者を愚者と見誤り「バカが何か言ってらwww」などと言って笑っているらしい。
そのような可愛らしい獣に与えられた名が、人間、である。
ところで最近歳をとったせいかシンプルなものを好む傾向が出てきた。
特にお菓子についてはその傾向が顕著である。
一番良いのはハイカカオのチョコレートか素焼きのナッツ類で、もうキットカットだのチョコパイだのというような複雑な味のものはあまり美味しく感じられないようになってきた。
それに伴って、日常生活の中でイライラするような場面が減少してきたようにも感じられる。
そこに因果関係があるのか定かでないが、自分自身の全体的な感覚的所見でいえば、最近の私という存在は意外性を失った木偶の坊である。
昔は自分のことをかけがえのない特別な、ヴェルタースオリジナルのような存在だと感じていたものだが、今となっては何処にでも居るただのおっさんである。
そんな風に自分のことを感じた時、何かにつけ面倒臭がるのをやめよう、と、何となく思った。
特に朝は忙しく、まだはっきりと目も覚めていない状態であれこれと身支度をして、1分2分を争うような状況の中で家を出る。
そのような時に、ふと、「もしかしたら出先で死んでしまうということもあるんだよな」と思ってしまったが最後、道端に転がっていた死体のことを思い出した。
あれは大学生の頃だったと記憶しているが、バイトが終わって駅前を歩いていたら、すき家を右に曲がったところにある歌広場の目の前の道路に死体が転がっていた。
それはスーツを着たサラリーマンで、目を見開いたまま頭から血を流して転がっていて、道路には割れた眼鏡と革の鞄と、鞄から飛び出したであろう手帳が落ちていて、一見して絶命している様子が見て取れた。
私は道路に広がる血液よりも、目を見開いて虚空を見つめている死体よりも、落ちたまま広げられた手帳にこそ意識を取られた。
それは既に意識のないこのサラリーマンにも、どこかの誰かと約束をした大切な、あるいは他愛のない予定が無数に在ったこと、そしてそれらの約束が果たされることは未来永劫ないのだということを何となく暗示していた。
サラリーマンを轢き殺したであろう男は、死体の脇でハザードを点滅させているボンネットの歪んだ軽自動車の運転席で震えながら煙草を吸っていた。
だから、という訳でもないのだが、仕事で朝家を出る時には妻と娘を抱きしめて、もし2人の機嫌が奇跡的に良さそうであればキッスなどもする。
それで何かが変わるとも思わないが、もしかしたら重要なことである可能性もなくはない。
しかし不思議なもので、最後の晩餐に素焼きのナッツとキットカットのどちらを選ぶかと問われれば、断然キットカットである。
特にみかん味が美味い。
あれは何個でも食える。
(2020-05-23)