「心の和室の襖はビリビリ」

古賀裕人のブログ

学問、あるいは勝利としての恋愛

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 4月から幼稚園に通い始めた我が娘に毎朝パンを焼いてやりながら日々の様子を尋ねるのがすっかり日課となってしまった今日この頃。


 今朝も「最近どう?」と尋ねたらば「お昼になってお弁当を見るとママを思い出して泣いてしまうんだ」などと教えてくれるものだから、「いつの間にか就活中の大学生みたいなことを言うようになったなぁ」などと味わい深く思ったものである。


 “男子三日会わざれば刮目して見よ”という言葉があるが、三歳児に至っては三日と言わずに朝と夕ではまるで別人のように成長してしまう。


 言語的な領域においてはその傾向が特に顕著で、登園する度に新しい言葉を十も二十も携えて帰って来てさらにはそのどれもが既に自由に使いこなせる練度でもって習得されているのだから驚きである。


 彼女たちのその言語習得速度を支えている要因には様々あるが、ひとつ重要な行為を挙げるとすればそれは模倣である。


 新しく習得した言葉の意味を正確に理解している訳でもなく、また話すことができる言葉を正しく書ける訳でもなく、彼女たちはただ新しく習得した言葉を使うことができるだけである。


 しかし私たち大人が自分自身に目を向けた時、彼女たちにとっては日常であるそれが既に失われた秘術であることに驚かされると言ったら嘘になる。(驚きはしないが「そう言えばそうだった」くらいには思うという意味である)


 さて私たち大人が新しく何かを「学ぶ」という行為には一種の快感のようなものが付随するため、兎角目的を見失いがちになるのが世の常である。


 特に日常生活に直結するような実学的な領域においては、自己研鑽的な姿勢は早々に失われて他者卑下的な優越思考に陥るのが関の山である。


 例えば「ゲシュタルト崩壊」という言葉がある。


 この言葉がなぜここまで世間に出回っているのか定かでないが、恐らくはそれが誰しもが経験し得るメジャーな現象であり、またその都度調べずにはいられないガリ勉志向のネットサーファー共がアメリカ資本主義のシンボルの下に「文字 連続 大量 分かんない」などと入力してエンターキーを押した結果の連続が大量に積み重なった結果の連続であろうと思う。


 それがこの有様である。


 私たちは人生のどこかでほぼ例外なく「ゲシュタルト崩壊」という言葉に出会い、またその内容を知識としてインストールしていながらにして、その成果はと言えば友だちと勉強している時に「やばwww書きすぎてゲシュタルト崩壊したwww」などと言って屁をこくだけの糞袋である。


 「救いようがない」とは正しくこのことである。


 そもそもゲシュタルト崩壊とは事物から認知的な全体性が失われ部分細部の崩壊→再統合がなされた結果正しい形が良く分かんなくなっちゃうことを指す言葉であり、真に重要であるのは「ゲシュタルト崩壊」という言葉そのものではなく、文字の正しい形が訳分かんなくなる面白現象そのものでもなく、物事における「全体性」の担う役割それである。


 妻が娘を連れて帰省している時の我が家の散らかりっぷりと言ったら半端ではない。


 床には(主に私が脱いだ)服が散乱しているし、シンクには(主に私が使った)皿やコップが積み重なり、挙げ句の果てには机に並んだ(主に私の)飲みかけのペットボトルの本数を数えれば妻が帰省してから何日経ったかすぐに分かる仕様である。


 全く悍ましいこの状況、なに故に引き起こされたのか。


 即ち、我が家における全体性とは私ではなく妻だ、ということである。(=学問の勝利)


 普段であれば妻が帰宅する前日の夜にゴミを片付け、シンクを磨き、洗濯をして掃除機をかけて、文字通り“全てを元通り”にしておくのだが、心臓に過度の負担がかかり寿命が年単位で失われるのは、妻が当初の予定よりも早く帰って来てしまう場合である。


 そのような時、大抵私は「明日帰って来るから〜今夜片付ければ良いか〜」などと悠長に構えながら鼻歌混じりに仕事をしている訳であるが、死刑宣告はいつでもLINEアプリに届くのが私たちの生きる令和という時代である。


 さてゲシュタルト崩壊と同じくらい有名な言葉に「つり橋効果」というものがある。


 「つり橋効果」が私たちに教えてくれたのは、“感情は後から名付けられる”という新しい解釈であった。


 つまり私たちには感情を起因とした身体的反応が観測された際に当該現象の前後の文脈から判断して“後から”感情を解釈する側面があるのだが、逆説的に言えば、私たちの感情とは有って無いようなもので、たしかに在るのは常に身体的な反応であり、究極的にはその解釈は自由である言って差し支えないのである。


 であれば私は「今帰宅したんだけど」から始まる妻からのLINEを受け取った際に生じるこの尋常ならざる胸の高鳴りを、“恋”と名付けよう。

 

 

(2021-05-06)