「心の和室の襖はビリビリ」

古賀裕人のブログ

ウエイトレス、ウエイター、あるいは見たこともない常連客

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 この世は舞台、人はみな役者、というようなことを急に言い出した変な人はマクベスの作者である。


 それらの現象については、かねてより無意識の内に認識されているものであったし、確かに科学外の感覚においては馴染み深い隣人であった。


 特に私たち日本人の社会的振る舞いについては、敬語やお辞儀などの特筆すべきガラパゴス性でもって具体例には枚挙に暇がないという事態にまで発展するに至っている。


 日常生活に関する大なり小なりは日常生活の中で処理して来たのが僕たちみたいな“普通の”庶民である一方で、学者という生物は俺たち庶民とは明確に異なる世界観の中に主我を携えているという点でとりわけ奇妙であると言える。


 今から70年ほど前、レストランで食事をしていた社会学者が急にこんなことを言い始めた。


「さっきからウエイトレスはウエイトレスっぽく、客は客っぽく振る舞ってて草」


 当然のことをその当然性を無視してあえて口にする、という行為は、時に学問の急速的発展の契機となり得る。


 この社会学者の草をきっかけとして、というのは後から考えてみればそうだったということなのだが、事実として対人コミュニケーション、あるいは自己表現について今から勉強をしようと思ったら、アレキサンダー大王の家庭教師と、マクベスの作者と、観阿弥の息子と、レストランで急に可笑しなことを言い始めたこの社会学者については避けては通れぬ一本道なのである。


 いつの時代においても急激な価値観の転換や爆発的な議論の活性化を促すのは、普通であればあえて触れるまでもない“暗黙の了解”や“自明の理”に対して正面から「なんで?」を突きつける奇天烈な学徒の存在である。


 そういった意味では、子ども、というのは正真正銘の学徒であるように思える。


 例えば先日私が「髪を切りに行ってくる」と声をかけたら、2歳の娘が「なんで?」と言った。


 だから私は「そろそろ毛量が増えてきたので乾かすのに時間がかかるようになってきた。私は毎朝とても慌ただしく時間というものを貴重に感じているので、髪を切る事によって価値としての時間を形而下に取り戻すのだ」と答えた。


 しかし娘は私の話にはあまり興味がないようで、イオンの3階にあるガチャガチャコーナーで引き当てた食パンマンのおもちゃを一心不乱に宙に走らせていた。


 妻を見ると何故かソファで昼寝を始めていたので、私はせめて娘も散髪に同伴することにした。


 車に乗って遥々40分。


 自分でも馬鹿げているとは自覚があるのだが、私の行きつけの散髪屋は自宅から車で40分もかかる場所に存在するのだ。


 世の中には2種類の人間がいる。


 同じ床屋に通い続ける私のような人間と、


 初回限定クーポンを使うことによってしか髪を切ることが出来ない女である。


 前者は面倒くさがり屋の人見知りであり、


 後者はホットペッパービューティの申し子である。


 さて、娘を連れて美容院に入ると、いつも担当してくれている美容師のおっさんが笑顔で出迎えてくれた。


「今日は娘さんも一緒なんすね〜かわいいっすね〜」


「妻に休息の時間を与えることの重要性は同じ子持ちであるあなたであれば充分に理解できるでしょうそれがいかに重要であるかも」


「パパ、なんでこのひとかみのけみどりいろなの」


 知らん。


 美容師というものはどこまでやったら毛根が、あるいは頭皮がキューティクルが死滅するのかを確かめずにはいられない哀れな生き物なのかもしれないし、矮小なる自我に豊かさと彩りを感じさせるためには染髪という行為は一抹の貢献を買って出るものなのかもしれないが。


 私が髪を切られている間、娘はiPhoneを自分で器用に操作してAmazonプライムのアプリを開き、こねこのチーというアニメーション作品を観ていた。


 2歳の子どもでもきちんと使いこなせるiPhoneには、やはり説明書など必要ないのだ。


 全ての工程が完了し、出来上がった頭髪をご覧に入れたら、娘は

 

「かっこよくなったね、ママがよろこぶね」


 と言った。


 妻は私が髪を切ると喜ぶの?


 なんで?

 


(2020-10-13)