「心の和室の襖はビリビリ」

古賀裕人のブログ

学問、あるいは勝利としての恋愛

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 4月から幼稚園に通い始めた我が娘に毎朝パンを焼いてやりながら日々の様子を尋ねるのがすっかり日課となってしまった今日この頃。


 今朝も「最近どう?」と尋ねたらば「お昼になってお弁当を見るとママを思い出して泣いてしまうんだ」などと教えてくれるものだから、「いつの間にか就活中の大学生みたいなことを言うようになったなぁ」などと味わい深く思ったものである。


 “男子三日会わざれば刮目して見よ”という言葉があるが、三歳児に至っては三日と言わずに朝と夕ではまるで別人のように成長してしまう。


 言語的な領域においてはその傾向が特に顕著で、登園する度に新しい言葉を十も二十も携えて帰って来てさらにはそのどれもが既に自由に使いこなせる練度でもって習得されているのだから驚きである。


 彼女たちのその言語習得速度を支えている要因には様々あるが、ひとつ重要な行為を挙げるとすればそれは模倣である。


 新しく習得した言葉の意味を正確に理解している訳でもなく、また話すことができる言葉を正しく書ける訳でもなく、彼女たちはただ新しく習得した言葉を使うことができるだけである。


 しかし私たち大人が自分自身に目を向けた時、彼女たちにとっては日常であるそれが既に失われた秘術であることに驚かされると言ったら嘘になる。(驚きはしないが「そう言えばそうだった」くらいには思うという意味である)


 さて私たち大人が新しく何かを「学ぶ」という行為には一種の快感のようなものが付随するため、兎角目的を見失いがちになるのが世の常である。


 特に日常生活に直結するような実学的な領域においては、自己研鑽的な姿勢は早々に失われて他者卑下的な優越思考に陥るのが関の山である。


 例えば「ゲシュタルト崩壊」という言葉がある。


 この言葉がなぜここまで世間に出回っているのか定かでないが、恐らくはそれが誰しもが経験し得るメジャーな現象であり、またその都度調べずにはいられないガリ勉志向のネットサーファー共がアメリカ資本主義のシンボルの下に「文字 連続 大量 分かんない」などと入力してエンターキーを押した結果の連続が大量に積み重なった結果の連続であろうと思う。


 それがこの有様である。


 私たちは人生のどこかでほぼ例外なく「ゲシュタルト崩壊」という言葉に出会い、またその内容を知識としてインストールしていながらにして、その成果はと言えば友だちと勉強している時に「やばwww書きすぎてゲシュタルト崩壊したwww」などと言って屁をこくだけの糞袋である。


 「救いようがない」とは正しくこのことである。


 そもそもゲシュタルト崩壊とは事物から認知的な全体性が失われ部分細部の崩壊→再統合がなされた結果正しい形が良く分かんなくなっちゃうことを指す言葉であり、真に重要であるのは「ゲシュタルト崩壊」という言葉そのものではなく、文字の正しい形が訳分かんなくなる面白現象そのものでもなく、物事における「全体性」の担う役割それである。


 妻が娘を連れて帰省している時の我が家の散らかりっぷりと言ったら半端ではない。


 床には(主に私が脱いだ)服が散乱しているし、シンクには(主に私が使った)皿やコップが積み重なり、挙げ句の果てには机に並んだ(主に私の)飲みかけのペットボトルの本数を数えれば妻が帰省してから何日経ったかすぐに分かる仕様である。


 全く悍ましいこの状況、なに故に引き起こされたのか。


 即ち、我が家における全体性とは私ではなく妻だ、ということである。(=学問の勝利)


 普段であれば妻が帰宅する前日の夜にゴミを片付け、シンクを磨き、洗濯をして掃除機をかけて、文字通り“全てを元通り”にしておくのだが、心臓に過度の負担がかかり寿命が年単位で失われるのは、妻が当初の予定よりも早く帰って来てしまう場合である。


 そのような時、大抵私は「明日帰って来るから〜今夜片付ければ良いか〜」などと悠長に構えながら鼻歌混じりに仕事をしている訳であるが、死刑宣告はいつでもLINEアプリに届くのが私たちの生きる令和という時代である。


 さてゲシュタルト崩壊と同じくらい有名な言葉に「つり橋効果」というものがある。


 「つり橋効果」が私たちに教えてくれたのは、“感情は後から名付けられる”という新しい解釈であった。


 つまり私たちには感情を起因とした身体的反応が観測された際に当該現象の前後の文脈から判断して“後から”感情を解釈する側面があるのだが、逆説的に言えば、私たちの感情とは有って無いようなもので、たしかに在るのは常に身体的な反応であり、究極的にはその解釈は自由である言って差し支えないのである。


 であれば私は「今帰宅したんだけど」から始まる妻からのLINEを受け取った際に生じるこの尋常ならざる胸の高鳴りを、“恋”と名付けよう。

 

 

(2021-05-06)

 

 

ウエイトレス、ウエイター、あるいは見たこともない常連客

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 この世は舞台、人はみな役者、というようなことを急に言い出した変な人はマクベスの作者である。


 それらの現象については、かねてより無意識の内に認識されているものであったし、確かに科学外の感覚においては馴染み深い隣人であった。


 特に私たち日本人の社会的振る舞いについては、敬語やお辞儀などの特筆すべきガラパゴス性でもって具体例には枚挙に暇がないという事態にまで発展するに至っている。


 日常生活に関する大なり小なりは日常生活の中で処理して来たのが僕たちみたいな“普通の”庶民である一方で、学者という生物は俺たち庶民とは明確に異なる世界観の中に主我を携えているという点でとりわけ奇妙であると言える。


 今から70年ほど前、レストランで食事をしていた社会学者が急にこんなことを言い始めた。


「さっきからウエイトレスはウエイトレスっぽく、客は客っぽく振る舞ってて草」


 当然のことをその当然性を無視してあえて口にする、という行為は、時に学問の急速的発展の契機となり得る。


 この社会学者の草をきっかけとして、というのは後から考えてみればそうだったということなのだが、事実として対人コミュニケーション、あるいは自己表現について今から勉強をしようと思ったら、アレキサンダー大王の家庭教師と、マクベスの作者と、観阿弥の息子と、レストランで急に可笑しなことを言い始めたこの社会学者については避けては通れぬ一本道なのである。


 いつの時代においても急激な価値観の転換や爆発的な議論の活性化を促すのは、普通であればあえて触れるまでもない“暗黙の了解”や“自明の理”に対して正面から「なんで?」を突きつける奇天烈な学徒の存在である。


 そういった意味では、子ども、というのは正真正銘の学徒であるように思える。


 例えば先日私が「髪を切りに行ってくる」と声をかけたら、2歳の娘が「なんで?」と言った。


 だから私は「そろそろ毛量が増えてきたので乾かすのに時間がかかるようになってきた。私は毎朝とても慌ただしく時間というものを貴重に感じているので、髪を切る事によって価値としての時間を形而下に取り戻すのだ」と答えた。


 しかし娘は私の話にはあまり興味がないようで、イオンの3階にあるガチャガチャコーナーで引き当てた食パンマンのおもちゃを一心不乱に宙に走らせていた。


 妻を見ると何故かソファで昼寝を始めていたので、私はせめて娘も散髪に同伴することにした。


 車に乗って遥々40分。


 自分でも馬鹿げているとは自覚があるのだが、私の行きつけの散髪屋は自宅から車で40分もかかる場所に存在するのだ。


 世の中には2種類の人間がいる。


 同じ床屋に通い続ける私のような人間と、


 初回限定クーポンを使うことによってしか髪を切ることが出来ない女である。


 前者は面倒くさがり屋の人見知りであり、


 後者はホットペッパービューティの申し子である。


 さて、娘を連れて美容院に入ると、いつも担当してくれている美容師のおっさんが笑顔で出迎えてくれた。


「今日は娘さんも一緒なんすね〜かわいいっすね〜」


「妻に休息の時間を与えることの重要性は同じ子持ちであるあなたであれば充分に理解できるでしょうそれがいかに重要であるかも」


「パパ、なんでこのひとかみのけみどりいろなの」


 知らん。


 美容師というものはどこまでやったら毛根が、あるいは頭皮がキューティクルが死滅するのかを確かめずにはいられない哀れな生き物なのかもしれないし、矮小なる自我に豊かさと彩りを感じさせるためには染髪という行為は一抹の貢献を買って出るものなのかもしれないが。


 私が髪を切られている間、娘はiPhoneを自分で器用に操作してAmazonプライムのアプリを開き、こねこのチーというアニメーション作品を観ていた。


 2歳の子どもでもきちんと使いこなせるiPhoneには、やはり説明書など必要ないのだ。


 全ての工程が完了し、出来上がった頭髪をご覧に入れたら、娘は

 

「かっこよくなったね、ママがよろこぶね」


 と言った。


 妻は私が髪を切ると喜ぶの?


 なんで?

 


(2020-10-13)


 

 

タフネス、ビューティ、ペットボトルの中のアニミズム、あるいは僕たち私たちなりの威風堂々物語

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 美しさにも古今東西清濁高低貴賎玉石様々あるが、行為としての清掃についていえば、そこに込められた想いの差による美徳の喪失、あるいは文化的儀礼を通じた内的神話性の獲得に至るプロセスに関して触れぬ訳にはいかんだろうというのが私の結論である。


 西洋文化の受容は合理主義の獲得を促したが、それが相対的な文化的儀礼の喪失と精神性の低下を招き、形而上的示唆、あるいはメタファーについての理解に関する国民的二極化を促進した点については若き日に塾で習った通りである。


 また、科学偏重主義に支配された唯物的な現代社会において私たちは「理由」なきものに関する興味を失い、瞳に映らぬものを虚像として切り捨てることで“TIME IS MONEY”な競争原理が支配する資本主義の荒波を泳ぎ切ろうと息巻いている点についても、思春期に塾で習った通りである。


 ところで我々の祖父母の世代くらいまでの人間は、「心には形がない」ということをとても良く識っていた。


 だから彼らは「存在はしているが実態のないもの」について無理に追求するということもしなかったし、わざわざ名前を付けて輪郭を縁取るということもしなかった。


 『星の王子さま』以降の世界に生きる私たちは、「大切なものは目に見えない」というラベルを貼った透明な箱に自らの虚空を投影することによって虚像を実体化し、あるいは歪んだ実情の中で肥大化した自己を虫眼鏡で眺めるような生活様式を獲得するに至ったという訳である。


 昨今においては丼一杯の中華麺が10ドルもする、しかし確実に10ドルの価値はない、麺も自家製でない、接客は最低である、メンマの全てが歯間に詰まる、大盛りが無料じゃない、店長がタメ口をきいてくる、店長が髭面である、店長の指毛が太すぎる、ラーメンというよりも高級な残飯か何かであるこれは、というような都市部に暮らす我々であるからして、多くの若者が精神に不調をきたしているのも無理はない。


 さて、私がついに重要であると考えているのは「考えない」ということである。


 思考せよ、などと宣う書籍は全てミスリードである。


 人間の行為を阻害する諸悪の根源こそが思考である。

 

 百害あって一利なし。


 思考によって行為が洗練されるということはまずない。


 行為は行為によってのみ研鑽され得るのである。


 ではなぜ「思考せよ」と呼びかけるのか。


 行動させないためである。


 行動さえしなければ、物事や環境が改善される、生活の質が向上するということは起こり得ない。


 半端に思考させ続ければ、予期不安の増幅増大によって行為を阻害し続けることが出来るのである。


「上手くいきません」


「それはまだまだ思考が足りないからです」


 その繰り返しで半永久的に学び続けてもらおう、本を何冊も買ってもらおうという、そういった算段である。


 考えるという行為は、考えるという結果しか生まない。


 だから強者はものを考えない。


 ものを考えるのは、古来より弱者の仕事である。


 それで私は強者たるべく普段から何も考えずに生活している訳であるが、妻にはどうにもそれが理解できないようで困る。


「なんで飲み終わったペットボトルが机の上に置きっぱなしになってるの?」


「なんでカラになったコンタクトケースが洗面所に何個も置いてあるの?」


「なんでいつも靴下を裏返して洗濯カゴに入れるの?」


「なんで洗ってない弁当箱を鞄に入れたまま寝られるの?」


「なんでなんでなんでなんで?」


 え〜い、うるさいうるさい!


 我は強者ぞ!?!?!?

 

 

 (2020-09-03)

 

 

窓の外のツツジ、あるいは机の上のマグカップ

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 この世には極論か暴論しか存在しないと言って差し支えない。


 例えば相反するテーゼは相対的に極論であり、片一方からの景色においては対岸がアンチテーゼとなる。


 そこで両者をぶつけ合うとどうなるかというと、偶然にもその場に神の目を持つ賢者が居合わせた場合にのみ、ジンテーゼという名の暴論が誕生する。


 いわゆる、正・反・合、というやつである。


 問題は、ジンテーゼというものがテーゼとアンチテーゼよりもひとつ上の次元に在るという点にある。


 私たちは私たち自身が存在する次元よりも低い次元に在るものを知覚することは出来ても、高い次元にあるもののことは知覚出来ないようになっている。


 そういった意味において、例えばテーゼに陣取っている者、アンチテーゼに陣取っている者たちにとっては、ジンテーゼの領域というものは認知の外側に在るものなのだ。


 だからこそ、意見をぶつけあっている者同士が、真に理解し合い、手を取り合って、より高い次元へと到達する、という場面に出会う機会はほとんどないと言って良い。


 賢者からもたらされるジンテーゼが理解不能のノイズにしか感じられない者たちは賢者を愚者と見誤り「バカが何か言ってらwww」などと言って笑っているらしい。


 そのような可愛らしい獣に与えられた名が、人間、である。


 ところで最近歳をとったせいかシンプルなものを好む傾向が出てきた。


 特にお菓子についてはその傾向が顕著である。


 一番良いのはハイカカオのチョコレートか素焼きのナッツ類で、もうキットカットだのチョコパイだのというような複雑な味のものはあまり美味しく感じられないようになってきた。


 それに伴って、日常生活の中でイライラするような場面が減少してきたようにも感じられる。


 そこに因果関係があるのか定かでないが、自分自身の全体的な感覚的所見でいえば、最近の私という存在は意外性を失った木偶の坊である。


 昔は自分のことをかけがえのない特別な、ヴェルタースオリジナルのような存在だと感じていたものだが、今となっては何処にでも居るただのおっさんである。


 そんな風に自分のことを感じた時、何かにつけ面倒臭がるのをやめよう、と、何となく思った。


 特に朝は忙しく、まだはっきりと目も覚めていない状態であれこれと身支度をして、1分2分を争うような状況の中で家を出る。


 そのような時に、ふと、「もしかしたら出先で死んでしまうということもあるんだよな」と思ってしまったが最後、道端に転がっていた死体のことを思い出した。


 あれは大学生の頃だったと記憶しているが、バイトが終わって駅前を歩いていたら、すき家を右に曲がったところにある歌広場の目の前の道路に死体が転がっていた。


 それはスーツを着たサラリーマンで、目を見開いたまま頭から血を流して転がっていて、道路には割れた眼鏡と革の鞄と、鞄から飛び出したであろう手帳が落ちていて、一見して絶命している様子が見て取れた。


 私は道路に広がる血液よりも、目を見開いて虚空を見つめている死体よりも、落ちたまま広げられた手帳にこそ意識を取られた。


 それは既に意識のないこのサラリーマンにも、どこかの誰かと約束をした大切な、あるいは他愛のない予定が無数に在ったこと、そしてそれらの約束が果たされることは未来永劫ないのだということを何となく暗示していた。


 サラリーマンを轢き殺したであろう男は、死体の脇でハザードを点滅させているボンネットの歪んだ軽自動車の運転席で震えながら煙草を吸っていた。


 だから、という訳でもないのだが、仕事で朝家を出る時には妻と娘を抱きしめて、もし2人の機嫌が奇跡的に良さそうであればキッスなどもする。


 それで何かが変わるとも思わないが、もしかしたら重要なことである可能性もなくはない。


 しかし不思議なもので、最後の晩餐に素焼きのナッツとキットカットのどちらを選ぶかと問われれば、断然キットカットである。


 特にみかん味が美味い。


 あれは何個でも食える。

 

 

(2020-05-23)

 

 

スプーンで掬って食べるケーキ、あるいは偽りの王者たち

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 宇宙について考え始めると、この美しい地球(ほし)はおろか、かけがえのない私(me)についてさえ取るに足らない些末な問題であるように感じられてしまうのだから恐ろしい。


 だから私には、「海を見てごらん。自分のちっぽけさに気づくから」というセリフが、慰めや励ましの言葉として適切であるとは到底思えないのだ。


 そもそも、「ああ、海はなんて広いんだ。それに比べて俺なんかちっぽけだ。そうだ、だからこそ思いっきり生きてやろう!精一杯やってみよう!」などというような都合の良い結論に至る人間の悩みなど偽装である。


 私たちは他人に向けてのみならず、高頻度で自分自身に対しても嘘をつく珍妙な生き物なのだ。


 さて、私たちが偽装するもののひとつに「弱い自分」というものがある。


 皆さんも良くご存知のように、私たちの住む世界では強そうな個体に様々な仕事やそれに伴う責任が集中し、需要と供給が完全に崩壊した世界、を、超人が、維持する、という、歪な様相が、散見される。


 もちろんそのような世界では“弱いふり”をするのが定石である。


 体力や知能、各種技能といった社会的生物的価値が低ければ低いほど、私たちは気持ちふんわりと日々を過ごすことが可能になる。


 劣等感?疎外感?

 

 馬鹿を言っちゃいけない。


 “強き者”を見たまえ。


 学校で、会社で、家庭で、毎日毎日彼らがどれだけの責任を背負ってどれ程の仕事量をこなしているか。


 海よりも深い劣等感や霙のように冷たい疎外感には耐えられる私たちであっても、さすがに“強き者”と同じだけの仕事と責任を背負ってしまったら1日だって、いや、2時間だって耐えられないだろう。


 私たちの背骨は、そんなに太くはないのだ。


 そこで、比較的頭の回る私たちの祖先は、“サボる”という行為を発明した。


 私たちの祖先は時に肉体的体力を温存するために、時に精神的健康に保つために、時に費用対効果を最大限高めるために、ありとあらゆる場面において圧倒的にサボってきた。


 一生懸命に、限界を超えて働き続けたいくつかの種は、自身にのしかかる重圧に耐えきれずその命を散らしていった。


 種として最も成果を挙げてきたのは“強き者”ではなく、“偽装者”である。


 “偽装者”は実際にはある程度の力を持ちながら、あえて“弱き者”を偽装することで仕事と責任を“強き者”に押し付け、彼らが社会貢献に邁進している隙に自分たちはものすごい勢いで繁殖をし勢力を拡大してきたのだ。


 つまり私たちは“偽装者の子孫”であり、今でもなお突然変異としてのみ存在する“強き者”に責任の所在を全振りしながら高笑いでのうのうと暮らしている訳であるが、そんな事実を認めることはバベルの塔より遥かに高い私たちのプライドが許さない。


 私たちのプライドはあまりにもその成分濃度が高いためにノーマルブランドを名乗ることが許されない程である。


 コンビニスイーツなどを見れば明らかであるが、“プレミアム”を名乗るのは生クリームの量が通常より多いとか、バニラビーンズの粒々が可視化されているとか、普通より大分味が濃いとか、そういったものである。


 そのような意味において私たちのプライドの濃さはと言えば、バスタブ一杯分のプライドの原液をコーヒーフレッシュのあの端っこをパキッとやって開ける容器みたいなもんに人智を超えた方法でもって無理やりねじ込んだくらいの凝縮率を誇るのだ。


 ハロー!私たちは【プレミアムプライド】を内包した生物であります。


 だからだろうか、謙虚ぶっている人間は山ほど居るが、真に謙虚な人間というものは見たことがない。


 私たちは“偽装者”の末裔であるからして「謙虚さ」についても当然、それを偽装してきた一族の末席に控えているのである。


 社会を見渡せば、無能な者ばかりが出世していく。

 

 何故か?


 いよいよ至極単純なロジックである。


 “より弱者を偽装した者が勝つ”


 それが世界の理であり、私たちの種が刻んできた栄光の歴史である。


 だから言わせて下さい。


 もし私が仕事から帰って来た時に、

 

 

「もうお仕事行きたくない行きたくない行きたくないぃ〜〜〜(´;Д;`)!!!今日すごい嫌なこと言われたぁ〜〜〜(´;Д;`)!!!あんなこと言われながら働くつもり無いし俺ぇ〜〜〜(´;Д;`)!!!もう嫌になっちゃった嫌になっちゃった嫌になっちゃったぁ〜〜〜(´;Д;`)!!!今日で絶対辞めてやるんだふえぇぇぇえええ〜〜〜(´;Д;`)!!!」

 

 

 などと言いながら泣いていたとしても、


 それは全部、勝つためだと。

 

 

 (2020-05-07)

 

 

なりたかったのは、あるいは優しい独裁者

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 子どもの頃から捻くれていた。


 友人たちが仮面ライダーに憧れている横で、私は没個性的なショッカーたちにシンパシーを感じていた。


 同級生が「モーニング娘の中で誰が一番好きか」について大激論を交わす傍らで、私は平山あやの勝気な眉頭に恋をしていた。


 教師に「勉強しろ」と言われればアルバイトに精を出し、親に「バイト頑張ってるね」と言われれば熱心に勉学に励んだ。


 恋人が和食派であれば私は毎日ハンバーガーを食べ、親友がミスチル派であれば私はRage Against the Machineを繰り返し聴いた。


 私がキュウリに蜂蜜をかけてもキュウリはメロンにならなかったし、アボカドにワサビ醤油をかけたってマグロの味はしなかった。


 私はそうやって昔から心底捻くれていて、そして誰よりも優しい人間になりたかった。



 「人生は選択の連続だ」と誰かが言った。


 私も全くその通りだと感じるが、いま振り返ってみればそこに選択の余地があったとも思えない。


 例えば進学先の高等学校を選択する際に、私にはどれだけの選択肢があっただろうか。


 恐らくは学費や学力、自宅からの距離によって半自動的に候補が絞られたことだろう。


 そして残されたほんの数校の中から、私は“自身の好み”に合わせて最終的な志望校を決定した訳であるが、果たして“自身の好みを自身で選択した”という手応えが、今現在、私の中に在るだろうか。


 私たちは「好き/嫌い」によってほとんど全ての事柄を処理しているが、一方で自分自身の「好き/嫌い」が“どこからやって来たものなのか”を意識することは殆どない。


 それは私たちの心の中に「無意識」というものが存在していて、ほとんど全部の事柄がそこで処理されているからであるが、では今更になって自分自身の心の中がどのような経緯を以って現在のカタチに至ったか、という問題をわざわざ掘り返して検分するだけの心の強さを私たちは持ち合わせていない。


 ところであなたには親友と呼べる存在が居るだろうか。


 私に言わせれば、無意識こそが真の親友である。


 彼ら(彼女たち)はいつだって私たちの中で誰よりも真摯に私たちの一番深い部分に寄り添い、私たちのために(文句のひとつも言わず)働いてくれているのだ。( そのような献身に対して私は1セントたりとも報酬を支払わないのにも関わらず、彼らは労働者組合にさえ未加入である。果たしてそのようなことがあり得るだろうか。)


 さて、私は抹茶味のアイスクリームや、右の長距離打者、それに少しゆったりめのジーンズやロックミュージックが好きなのだが私はその根源的な理由を知らない。


 もちろん“理由”は説明できる。


 しかし、その理由を説明することができない。


 私たちは極めて不器用な生き物であり、限りなく無知な存在である。


 自分が好きなものひとつ、マトモに説明することができないのだから。



 自分の意外な一面を発見してときめいたり、あるいは落ち込んだりすることがある。


 平時そのようなことはあまりないが、例えば最近のような非日常の世界に迷い込むとそんな体験をする場合も出て来るだろう。


 意識的に外出を控えて、なるべく家の中に閉じこもっている、という経験は、特に問題なく青年期を過ごした一般庶民においてはほとんど未体験のことであったろう。


 そのような状況の中で、「え、俺ってこんなことで不機嫌になるの?」「え、私ってこんなことにムカッとするの?」という初めての体験をするに至った諸君も多いのではないかと推察する。


 あるいはそれまでは気にならなかった旦那の生活音をやたらと煩く感じるようになったりだとか、気にしたこともなかった隣近所の人間の倫理観に想いを馳せるようになっただとか、例えば自分の行動が他人から見て非常識的であると非難され得ないかどうか気にするようになっただとか、そんなような「自分自身の中に生じた小さな変化に気がついた」ということも有り得るだろう。


 私たちの“生存本能”というものは案外優秀で、自分の身が危険に晒されている場合においては様々な感覚が敏感になり、こと外界における多様な分野・領域に対する取捨選択の意識が芽生えるものである。(もちろん、無意識下で。)


 つまり私たちは私たちの知らぬ存ぜぬ領域において私たち自身の命を守ろうと各々が一生懸命に奮闘をしている訳である。


 その結果が、左記の小さな変化群である。


 私たちの心の中には茶碗のようなものがあって、そこには日々、ストレスという名の白湯が注がれ続けている。


 そして白湯が茶碗の容量をオーバーすると人は“キレる”訳であるが、茶碗の大きさは人によって異なる上に、白湯の量や勢いも十人十色である上に、さらに言えば“そもそもそこに茶碗とそれに注がれる白湯があることにさえ気付いていない”という者も居るので人間の社会は面白い。


 そんな訳で私たちのストレス耐性には個人差があるのだが、もちろんのこと平時と有事ではその耐性も変化するのだから厄介である。


 例えば「自分は割とストレスに強い人間である」と思っていても、もしかしたらそれは平時において発揮される傾向であって、有事におけるストレス耐性は極めて低いタイプであるかもしれない。


 例えば「私はめっちゃ豆腐メンタルなんですぅ〜」と思っていても、実は有事に際しては案外いつもと変わらず生活できちゃうタイプかもしれない。


 自分の意外な一面に出会うのが相対的には有事の際なのは、私たちがいつもと違う行動をとる時、私たちはいつもの自分ではいられないからである。



 3大欲求が極めて正確に満たされるのは「支配欲」と「独占欲」も同時に満たされている場合に限ると私は声を大にして言いたい。


 食欲。


 おにぎりがひとつ在って、それを食べて食欲を満たすためには「そのおにぎりが反抗的ではない」ということと、「そのおにぎりは自分のものである」ということが同時に求められる。


 もしもおにぎりが反抗的であったら、おにぎりは私に食べられることを全力で回避しようと必死にもがくであろう。そして、万が一には私の手を逃れ、おにぎり氏は自由を手にすることになるであろう。


 それでは、私の食欲は満たされぬ。


 もしもおにぎりが私自身の所有物でなければ、私はまずそのおにぎりを自分のものにするために交渉や、あるいは窃盗をせねばなるまい。そして、万が一には私はおにぎりの入手に失敗し、禁固刑に処される未来が訪れる場合もあるだろう。


 それでは、私の食欲は満たされぬ。


 性欲にしても睡眠欲にしても同様である。


 女を抱くのならば従順な女を自身の管理下にある部屋で決して反抗的ではないコンドームを装着して抱きたいし、スヤスヤと眠るのであれば自身の眠りの主導権を他者に握られる訳にはいかないのだ。


 そのように考えてみると、私たちにとって重要であるのは、3大欲求などよりも、よっぽど「支配欲」と「独占欲」の方なのではないか、と考えることを可能にするための準備が整う。


 つまりは前提条件というやつだ。


 私たちは何につけてもそれを支配し独占することで、初めて欲求というものを真に満たすことが可能になるのである。


 では私たちにとって最も重要であるものは何か。


 私たち自身である。


 つまり私にとっての私、あなたにとってのあなたである。


 こう考えてみて欲しい。


 「私は私自身を支配し、独占することが出来ているか」


 私は私自身の支配権を他者に委ねていないか、あるいは他者からの盗難に遭っていないか。


 私は私自身を独占することができず他者からの介入を受けていないか、あるいは自身がそれを望んでしまってはいないか。


 そのように問うてみれば、自分以外の誰かを支配し独占したいと願う心がいかに不健康で歪んでいるかが分かるだろう。


 言うまでもなく、おにぎりは、おにぎり自身のものである。

 

 

(2020-04-29)

 

 

世界、あるいは下手くそな自己について

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 「なんで勉強しなくちゃいけないの?勉強なんかが一体、何の役に立つっていうの?」


 そんな風な質問を、自分の子どもから、兄弟から、あるいは教え子などから受けたことがあるかもしれない。


 もちろん私たち自身にも、同様の疑問を抱いた経験があったはずである。


 ところがこういった類の質問は「勉強をしたくない者からもたらされるイチャモンである」として処分され、場合によっては極めて雑な扱いを受けるに至る。


 さらには「ゲゲッ、言われてみればその通りだ!勉強なんかしなくても良いじゃん!?」というような大人側の(悪魔的な)気づきによって、子どもたちから光り輝く未来というものを永久的に簒奪するという結果に至る場合もあり得る。


 さて、多くの者がそうであるように、私たちも勉強があまり好きではない。


 興味関心は人間の持つ最上級の美徳である一方で、宝石のような知的好奇心を有する者の数は決して多くない。


 子どもには「勉強しなさい」と言いながら自分は全然勉強してこなかった、というような大人が世の中の大半を占めている。


 それではさすがに、子どもたちからの質問に対して正確に答えるのは難しいだろう。


 特に難しいのは、子どもたちに対して真っ直ぐに、混じりっ気のない正直な気持ちを打ち明けることである。


 私を例に取って、自分が勉強をしてこなかったのは「勉強が苦手だったから」だと釈明してみるのはどうだろう。


 当然のこととして、「勉強が苦手であるかどうか」は、「勉強をして来なかった理由」にはなり得ない。


 勉強が苦手でも一生懸命に勉強をする人間は居るし、苦手を克服した経験を持つ者もまた多いからである。


 そこで、真っ直ぐに正直に「勉強をしてこなかった理由」を説明するとすれば、恐らく次ようになるだろう。

 


 「私が勉強をしてこなかったのは、私が生来的に極めて怠惰で自分に甘く、楽な道と辛い道とがあれば例えその先に続くのが茨の道であったとしても、ありとあらゆる理由をつけて、欺瞞と自己弁護の果てに楽な道を選ぶタイプだからです。心のどこかでは“勉強をしなくてはならない”ということが感覚的に理解できていたので、勉強から逃げ続けた我が人生には比較的小さな、しかし極めて強烈で激しい“罪悪感”が永続的かつ明瞭に在り続けます。あるいは勉強だけに留まらず、そのような後ろ向きで薄弱な精神と悪感情は私の生活のあらゆる面に対して悪影響を及ぼしており、結局のところ、私が私自身を心から承認することが出来ず、一向に幸福への道筋が見えて来ないのも、全ては自分自身との向き合い方に問題があるからだと思います。もし若い頃に自分自身の弱い心、脆弱な魂と真剣に向き合うことができていたら、今頃はもう少しマシな人間になっていたのかもしれません。多くの人に支えられてなんとか生きてはいますが、寝ても覚めても、モヤモヤとした不安のようなものが、ずっと心を支配しています」

 


 さて、子どもたちからの質問に対してどう答えれば良いか、という問題については、「答えはひとつではない」ということと、「質問しようと思ったからには必ず動機がある」ということ、そして「嘘は必ずバレる」という3つのポイントをおさえることが重要であるように思う。


 まず「答えはひとつではない」ということについては、換言すると「勉強というものはあまりにも役に立つ先が多いので、どれを答えてあげるのが適切であるのかについては当該の子どもの性質に依る部分が大きい」という意味である。


 例えば英語の勉強が嫌いでやりたくない、と思っている子どもが居たとして、「英語は役に立つよ」と言ってやる時にその子の趣味や将来の夢に寄せてなるべく具体的に話してあげると良いだろう。


 もしもその子が将来刀鍛冶になりたいのであれば、「日本刀のコレクターの多くは海外に住んでいるから、これから刀鍛冶として食べて行きたいのならば、英語で注文を受けられると活躍の幅が広がるかもね」というように話してあげればあるいはピンとくるかもしれない。


 少なくとも「現代のようなグローバル社会においては世界語としての英語の習得は必須である」というような訳の分からないトンチンカンな妄言を訳知り顔でドヤるのは控えた方が賢明であろう。


 ふたつ目は「動機」である。


 「なんで勉強しなきゃいけないの!?勉強なんてなんの役にも立たなくない!?」というようなカワイイことを言ってくれるギャルは、非常に多くのストレスを抱えながら日々生活しているものである。


 思春期とは混沌である。自我が再構築され固有の価値観が芽吹く蛹の季節である。


 そのような時期に「マジで勉強がなんの役に立つのか分からないから訊いている」という子どもはそんなに多くないし、真に勉強がなんの役に立つのかを探求しようというような知的好奇心を持つ学生は極めて意識が高い子どもであると言わざるを得ない。


 であるからして、「なんで勉強しなきゃいけないの!?勉強なんてなんの役にも立たなくない!?」と問うた動機は何なのか、それを探ることこそが重要である。


 方法論的にはカウンセリングの手法やニードセールスの深掘りがほぼ同一のものである。


 質問を重ねて真の動機に迫っていくその方法は、実は生活の様々な場面で役に立つので、今度また機会を設けてひとつの記事にしても良いかもしれない。(面倒なのでやらない)


 とにかく、勉強の必要性を問う子どもたちの多くは、実際には勉強の必要性を問うている訳ではない、ということでご理解下さい。(?)


 さて最後は「嘘は必ずバレる」ということについて。


 私たちは私たちが思っている以上に嘘をつくのが下手である。


 私たちの嘘のサインは、喋っている内容というよりも「喋っている時の表情や態度」に現れ出て相手に伝わる。


 子どもたちは大人の嘘を見抜くのがとても上手で、大人が嘘ばかりついて全然本当のことを教えてくれないということを経験的に理解している。


 特に教師については絶望しているだろう。


 今の子どもたちはスマートフォンを持っているので、大学を出てすぐに何の社会経験も積まぬまま教師になった大人に対してまともな社会性を求めることの愚かしさについて大変良く理解している。(この一文は完全に余談である)


 そんな訳で、子どもは私たちが信念なく発する言葉を瞬時に見抜く。


 だからこそ、「なんで勉強ってしなくちゃいけないの?」と問われた際には、適当に誤魔化したり、耳触りの良い言葉で飾り立てたりしてはいけない。


 極論、合っているか間違っているかよりも、整合性が有るか無いかよりも、常識的か否かよりも、自分自身として真に理解し納得している答えであるかどうか、が重要である。


 例えば私は昔から、「なんで勉強ってしなくちゃいけないの?」と問われた際には、「それは世界が認識の上に成り立っているからだ」と答えるようにしている。(その後、約45分間、私は一人で喋り続ける)


 そんな私であるが、昨晩チキンソテーを作っていて、その際に使用したフライパンの油をそのままシンクに流そうとしてしまった。


 それを見た妻は奇声を発しながらダッシュでやって来て私からフライパンを強奪し、「油をそのまま流すバカがどこに居る!!!」といって私を叱った。


 あるいはこれも、学生時代にもう少しきちんと勉強をしていたら、防げた事態であったのかもしれない。

 

 

(2020-04-23)