タフネス、ビューティ、ペットボトルの中のアニミズム、あるいは僕たち私たちなりの威風堂々物語
美しさにも古今東西清濁高低貴賎玉石様々あるが、行為としての清掃についていえば、そこに込められた想いの差による美徳の喪失、あるいは文化的儀礼を通じた内的神話性の獲得に至るプロセスに関して触れぬ訳にはいかんだろうというのが私の結論である。
西洋文化の受容は合理主義の獲得を促したが、それが相対的な文化的儀礼の喪失と精神性の低下を招き、形而上的示唆、あるいはメタファーについての理解に関する国民的二極化を促進した点については若き日に塾で習った通りである。
また、科学偏重主義に支配された唯物的な現代社会において私たちは「理由」なきものに関する興味を失い、瞳に映らぬものを虚像として切り捨てることで“TIME IS MONEY”な競争原理が支配する資本主義の荒波を泳ぎ切ろうと息巻いている点についても、思春期に塾で習った通りである。
ところで我々の祖父母の世代くらいまでの人間は、「心には形がない」ということをとても良く識っていた。
だから彼らは「存在はしているが実態のないもの」について無理に追求するということもしなかったし、わざわざ名前を付けて輪郭を縁取るということもしなかった。
『星の王子さま』以降の世界に生きる私たちは、「大切なものは目に見えない」というラベルを貼った透明な箱に自らの虚空を投影することによって虚像を実体化し、あるいは歪んだ実情の中で肥大化した自己を虫眼鏡で眺めるような生活様式を獲得するに至ったという訳である。
昨今においては丼一杯の中華麺が10ドルもする、しかし確実に10ドルの価値はない、麺も自家製でない、接客は最低である、メンマの全てが歯間に詰まる、大盛りが無料じゃない、店長がタメ口をきいてくる、店長が髭面である、店長の指毛が太すぎる、ラーメンというよりも高級な残飯か何かであるこれは、というような都市部に暮らす我々であるからして、多くの若者が精神に不調をきたしているのも無理はない。
さて、私がついに重要であると考えているのは「考えない」ということである。
思考せよ、などと宣う書籍は全てミスリードである。
人間の行為を阻害する諸悪の根源こそが思考である。
百害あって一利なし。
思考によって行為が洗練されるということはまずない。
行為は行為によってのみ研鑽され得るのである。
ではなぜ「思考せよ」と呼びかけるのか。
行動させないためである。
行動さえしなければ、物事や環境が改善される、生活の質が向上するということは起こり得ない。
半端に思考させ続ければ、予期不安の増幅増大によって行為を阻害し続けることが出来るのである。
「上手くいきません」
「それはまだまだ思考が足りないからです」
その繰り返しで半永久的に学び続けてもらおう、本を何冊も買ってもらおうという、そういった算段である。
考えるという行為は、考えるという結果しか生まない。
だから強者はものを考えない。
ものを考えるのは、古来より弱者の仕事である。
それで私は強者たるべく普段から何も考えずに生活している訳であるが、妻にはどうにもそれが理解できないようで困る。
「なんで飲み終わったペットボトルが机の上に置きっぱなしになってるの?」
「なんでカラになったコンタクトケースが洗面所に何個も置いてあるの?」
「なんでいつも靴下を裏返して洗濯カゴに入れるの?」
「なんで洗ってない弁当箱を鞄に入れたまま寝られるの?」
「なんでなんでなんでなんで?」
え〜い、うるさいうるさい!
我は強者ぞ!?!?!?
(2020-09-03)