「心の和室の襖はビリビリ」

古賀裕人のブログ

僕の明太子、あるいは君のカフェ・オーレ

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 「明太子食べる?」と母に訊かれて、特に食べたいとは思わなかったが返事をする前に机に置かれた。


 質問には回答を期待するものとそうでないものがある。


 今回の場合においてはそれが後者であったというだけの話であって、母はコミュニケーション能力に特定の問題を抱えている訳ではないし、私と母の間にある人間関係についても特に問題という程の問題はないはずであるし、少なくとも私はそう信じて直近の30年を真摯に生きてきた。


 もちろん、私は問題ないと思っていても、あなたは問題あると思っている、という状況は有り得るだろう。


 例えば私は、“洋服を畳む”という行為に納得がいかない。


 あんなものは干しっぱなしにしたままで、直接ハンガーから取って着ればそれで良いだろうと思う。


 しかし世の中にはそんな私の思想には問題がある、きっと生まれつき知能指数が低いのだろう、いや親の育て方が悪かったのだろう、果てはファストフードの食いすぎでDNAが変質しているのだと、そんな風に感じる人も少なからず居ることだろう。


 ただし忘れてはならないのは、私が毎日きちんと洗濯物を畳んでいる、という事実である。


 思想と行動は必ずしも一致しない。


 私は日常生活における家事の細部に宿る日本人の精神性とその価値を正確に理解しているため、極めて丁寧に洗濯物を畳むのである。


 例え心の内に「何で畳む必要があんだよ無駄だろこの作業」という思想を抱いていようとも。


 さて、愛情は行動によって伝達されるものである。


 日本人はかねてより極めて文学的な人種であるため、恋人や配偶者に「愛しているよ」と言うのが苦手である。


 しかし冷静に考えてみれば、毎日「愛しているよ」と伝えてくれるパートナーと、ただの一度も伝えてくれないパートナー、どちらの方がより愛情深いように感じられるかというシンプルな話でしかないので、改めて行数を設けてごちゃごちゃと言う必要もないだろう。


 「容易に得られるものには価値がない」


 そんな暴言がどこからともなく聞こえて来るような気がするが、それは想像力の欠如でしかないと、あえて言おう。


 妻の好物はカフェ・オーレである。


 妻は暇さえあれば湯を沸かし、お気に入りのグラスに慣れた手つきでインスタントコーヒーの粉を入れ、少量の湯で溶き、大量の氷(買って来るのは私)と牛乳をなみなみ注いでカフェ・オーレを自作する。


 そんな妻の姿を見ていると「買って来た市販のカフェ・オーレの方が美味いに決まってるだろ」と思うのだが、実際に私の口から出る言葉が「あ、良いな〜!俺の分も作ってよ〜😊」であることによって、私たちは極めて幸福な生活を手にしている。


 無意識の内に明太子を頬張っていて、「そういえば昔はこんな食い方しなかったな」と思った。


 子どもの頃はひと切れの明太子の内側から卵の部分だけを箸で掬い、あるいは刮ぎ、それを白米の上に薄く伸ばして食べていた。


 それはとても細かい無数の決まりごとに満ちた所作であったように思い出される。


 例えば薄皮の存在を許容できなかった私は何があっても絶対に、少量であっても薄皮を口にしなかったし、一回につまむ卵は海原雄山が「使って良い」と言った箸の先端部分を決して超えない分量に限定していたし、白米の上でなるべく均等になるように丁寧に伸ばし塗りをしていたし、今改めて思い返せば五郎丸もびっくりのルーティンである。


 そんな私であるのに、気がつけば薄皮がついたままのひと切れを丸ごと頬張るようになっていた。


 いたいけな少年の身に一体何が起きたというのだろうか。


 あんなに嫌がっていた薄皮を、どうして頬張る真似が出来ようか。


 恐らく、いつのまにか気にしなくなった、というのがひとつの答えであろう。


 私たちは昔、色々なことを気にして生きていた。


 しかし歳を重ね、知識を蓄え、身体が成長し、精神が成熟するに従って、身の回りの事象についてあまり深く考えないようになっていく。


 例えば何故母親が私のために食事を作ってくれるのかとか、何故父が私の学費を払ってくれるのかとか、そういったことも。


 例えば話しかけたら応えてくれる相手がいることとか、蛇口を捻れば当たり前のように飲める水が出てくることとか、そういったことも。


 些細なことも重大なこともうっかり気にしなくなってしまう私たちだからこそ、ふと思い出した時には「ラッキー!」と思って、素直に想いを伝えるのが良いだろう。

 


 (2020-03-28)