「心の和室の襖はビリビリ」

古賀裕人のブログ

世界、あるいは下手くそな自己について

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 「なんで勉強しなくちゃいけないの?勉強なんかが一体、何の役に立つっていうの?」


 そんな風な質問を、自分の子どもから、兄弟から、あるいは教え子などから受けたことがあるかもしれない。


 もちろん私たち自身にも、同様の疑問を抱いた経験があったはずである。


 ところがこういった類の質問は「勉強をしたくない者からもたらされるイチャモンである」として処分され、場合によっては極めて雑な扱いを受けるに至る。


 さらには「ゲゲッ、言われてみればその通りだ!勉強なんかしなくても良いじゃん!?」というような大人側の(悪魔的な)気づきによって、子どもたちから光り輝く未来というものを永久的に簒奪するという結果に至る場合もあり得る。


 さて、多くの者がそうであるように、私たちも勉強があまり好きではない。


 興味関心は人間の持つ最上級の美徳である一方で、宝石のような知的好奇心を有する者の数は決して多くない。


 子どもには「勉強しなさい」と言いながら自分は全然勉強してこなかった、というような大人が世の中の大半を占めている。


 それではさすがに、子どもたちからの質問に対して正確に答えるのは難しいだろう。


 特に難しいのは、子どもたちに対して真っ直ぐに、混じりっ気のない正直な気持ちを打ち明けることである。


 私を例に取って、自分が勉強をしてこなかったのは「勉強が苦手だったから」だと釈明してみるのはどうだろう。


 当然のこととして、「勉強が苦手であるかどうか」は、「勉強をして来なかった理由」にはなり得ない。


 勉強が苦手でも一生懸命に勉強をする人間は居るし、苦手を克服した経験を持つ者もまた多いからである。


 そこで、真っ直ぐに正直に「勉強をしてこなかった理由」を説明するとすれば、恐らく次ようになるだろう。

 


 「私が勉強をしてこなかったのは、私が生来的に極めて怠惰で自分に甘く、楽な道と辛い道とがあれば例えその先に続くのが茨の道であったとしても、ありとあらゆる理由をつけて、欺瞞と自己弁護の果てに楽な道を選ぶタイプだからです。心のどこかでは“勉強をしなくてはならない”ということが感覚的に理解できていたので、勉強から逃げ続けた我が人生には比較的小さな、しかし極めて強烈で激しい“罪悪感”が永続的かつ明瞭に在り続けます。あるいは勉強だけに留まらず、そのような後ろ向きで薄弱な精神と悪感情は私の生活のあらゆる面に対して悪影響を及ぼしており、結局のところ、私が私自身を心から承認することが出来ず、一向に幸福への道筋が見えて来ないのも、全ては自分自身との向き合い方に問題があるからだと思います。もし若い頃に自分自身の弱い心、脆弱な魂と真剣に向き合うことができていたら、今頃はもう少しマシな人間になっていたのかもしれません。多くの人に支えられてなんとか生きてはいますが、寝ても覚めても、モヤモヤとした不安のようなものが、ずっと心を支配しています」

 


 さて、子どもたちからの質問に対してどう答えれば良いか、という問題については、「答えはひとつではない」ということと、「質問しようと思ったからには必ず動機がある」ということ、そして「嘘は必ずバレる」という3つのポイントをおさえることが重要であるように思う。


 まず「答えはひとつではない」ということについては、換言すると「勉強というものはあまりにも役に立つ先が多いので、どれを答えてあげるのが適切であるのかについては当該の子どもの性質に依る部分が大きい」という意味である。


 例えば英語の勉強が嫌いでやりたくない、と思っている子どもが居たとして、「英語は役に立つよ」と言ってやる時にその子の趣味や将来の夢に寄せてなるべく具体的に話してあげると良いだろう。


 もしもその子が将来刀鍛冶になりたいのであれば、「日本刀のコレクターの多くは海外に住んでいるから、これから刀鍛冶として食べて行きたいのならば、英語で注文を受けられると活躍の幅が広がるかもね」というように話してあげればあるいはピンとくるかもしれない。


 少なくとも「現代のようなグローバル社会においては世界語としての英語の習得は必須である」というような訳の分からないトンチンカンな妄言を訳知り顔でドヤるのは控えた方が賢明であろう。


 ふたつ目は「動機」である。


 「なんで勉強しなきゃいけないの!?勉強なんてなんの役にも立たなくない!?」というようなカワイイことを言ってくれるギャルは、非常に多くのストレスを抱えながら日々生活しているものである。


 思春期とは混沌である。自我が再構築され固有の価値観が芽吹く蛹の季節である。


 そのような時期に「マジで勉強がなんの役に立つのか分からないから訊いている」という子どもはそんなに多くないし、真に勉強がなんの役に立つのかを探求しようというような知的好奇心を持つ学生は極めて意識が高い子どもであると言わざるを得ない。


 であるからして、「なんで勉強しなきゃいけないの!?勉強なんてなんの役にも立たなくない!?」と問うた動機は何なのか、それを探ることこそが重要である。


 方法論的にはカウンセリングの手法やニードセールスの深掘りがほぼ同一のものである。


 質問を重ねて真の動機に迫っていくその方法は、実は生活の様々な場面で役に立つので、今度また機会を設けてひとつの記事にしても良いかもしれない。(面倒なのでやらない)


 とにかく、勉強の必要性を問う子どもたちの多くは、実際には勉強の必要性を問うている訳ではない、ということでご理解下さい。(?)


 さて最後は「嘘は必ずバレる」ということについて。


 私たちは私たちが思っている以上に嘘をつくのが下手である。


 私たちの嘘のサインは、喋っている内容というよりも「喋っている時の表情や態度」に現れ出て相手に伝わる。


 子どもたちは大人の嘘を見抜くのがとても上手で、大人が嘘ばかりついて全然本当のことを教えてくれないということを経験的に理解している。


 特に教師については絶望しているだろう。


 今の子どもたちはスマートフォンを持っているので、大学を出てすぐに何の社会経験も積まぬまま教師になった大人に対してまともな社会性を求めることの愚かしさについて大変良く理解している。(この一文は完全に余談である)


 そんな訳で、子どもは私たちが信念なく発する言葉を瞬時に見抜く。


 だからこそ、「なんで勉強ってしなくちゃいけないの?」と問われた際には、適当に誤魔化したり、耳触りの良い言葉で飾り立てたりしてはいけない。


 極論、合っているか間違っているかよりも、整合性が有るか無いかよりも、常識的か否かよりも、自分自身として真に理解し納得している答えであるかどうか、が重要である。


 例えば私は昔から、「なんで勉強ってしなくちゃいけないの?」と問われた際には、「それは世界が認識の上に成り立っているからだ」と答えるようにしている。(その後、約45分間、私は一人で喋り続ける)


 そんな私であるが、昨晩チキンソテーを作っていて、その際に使用したフライパンの油をそのままシンクに流そうとしてしまった。


 それを見た妻は奇声を発しながらダッシュでやって来て私からフライパンを強奪し、「油をそのまま流すバカがどこに居る!!!」といって私を叱った。


 あるいはこれも、学生時代にもう少しきちんと勉強をしていたら、防げた事態であったのかもしれない。

 

 

(2020-04-23)