「心の和室の襖はビリビリ」

古賀裕人のブログ

僕の明太子、あるいは君のカフェ・オーレ

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 「明太子食べる?」と母に訊かれて、特に食べたいとは思わなかったが返事をする前に机に置かれた。


 質問には回答を期待するものとそうでないものがある。


 今回の場合においてはそれが後者であったというだけの話であって、母はコミュニケーション能力に特定の問題を抱えている訳ではないし、私と母の間にある人間関係についても特に問題という程の問題はないはずであるし、少なくとも私はそう信じて直近の30年を真摯に生きてきた。


 もちろん、私は問題ないと思っていても、あなたは問題あると思っている、という状況は有り得るだろう。


 例えば私は、“洋服を畳む”という行為に納得がいかない。


 あんなものは干しっぱなしにしたままで、直接ハンガーから取って着ればそれで良いだろうと思う。


 しかし世の中にはそんな私の思想には問題がある、きっと生まれつき知能指数が低いのだろう、いや親の育て方が悪かったのだろう、果てはファストフードの食いすぎでDNAが変質しているのだと、そんな風に感じる人も少なからず居ることだろう。


 ただし忘れてはならないのは、私が毎日きちんと洗濯物を畳んでいる、という事実である。


 思想と行動は必ずしも一致しない。


 私は日常生活における家事の細部に宿る日本人の精神性とその価値を正確に理解しているため、極めて丁寧に洗濯物を畳むのである。


 例え心の内に「何で畳む必要があんだよ無駄だろこの作業」という思想を抱いていようとも。


 さて、愛情は行動によって伝達されるものである。


 日本人はかねてより極めて文学的な人種であるため、恋人や配偶者に「愛しているよ」と言うのが苦手である。


 しかし冷静に考えてみれば、毎日「愛しているよ」と伝えてくれるパートナーと、ただの一度も伝えてくれないパートナー、どちらの方がより愛情深いように感じられるかというシンプルな話でしかないので、改めて行数を設けてごちゃごちゃと言う必要もないだろう。


 「容易に得られるものには価値がない」


 そんな暴言がどこからともなく聞こえて来るような気がするが、それは想像力の欠如でしかないと、あえて言おう。


 妻の好物はカフェ・オーレである。


 妻は暇さえあれば湯を沸かし、お気に入りのグラスに慣れた手つきでインスタントコーヒーの粉を入れ、少量の湯で溶き、大量の氷(買って来るのは私)と牛乳をなみなみ注いでカフェ・オーレを自作する。


 そんな妻の姿を見ていると「買って来た市販のカフェ・オーレの方が美味いに決まってるだろ」と思うのだが、実際に私の口から出る言葉が「あ、良いな〜!俺の分も作ってよ〜😊」であることによって、私たちは極めて幸福な生活を手にしている。


 無意識の内に明太子を頬張っていて、「そういえば昔はこんな食い方しなかったな」と思った。


 子どもの頃はひと切れの明太子の内側から卵の部分だけを箸で掬い、あるいは刮ぎ、それを白米の上に薄く伸ばして食べていた。


 それはとても細かい無数の決まりごとに満ちた所作であったように思い出される。


 例えば薄皮の存在を許容できなかった私は何があっても絶対に、少量であっても薄皮を口にしなかったし、一回につまむ卵は海原雄山が「使って良い」と言った箸の先端部分を決して超えない分量に限定していたし、白米の上でなるべく均等になるように丁寧に伸ばし塗りをしていたし、今改めて思い返せば五郎丸もびっくりのルーティンである。


 そんな私であるのに、気がつけば薄皮がついたままのひと切れを丸ごと頬張るようになっていた。


 いたいけな少年の身に一体何が起きたというのだろうか。


 あんなに嫌がっていた薄皮を、どうして頬張る真似が出来ようか。


 恐らく、いつのまにか気にしなくなった、というのがひとつの答えであろう。


 私たちは昔、色々なことを気にして生きていた。


 しかし歳を重ね、知識を蓄え、身体が成長し、精神が成熟するに従って、身の回りの事象についてあまり深く考えないようになっていく。


 例えば何故母親が私のために食事を作ってくれるのかとか、何故父が私の学費を払ってくれるのかとか、そういったことも。


 例えば話しかけたら応えてくれる相手がいることとか、蛇口を捻れば当たり前のように飲める水が出てくることとか、そういったことも。


 些細なことも重大なこともうっかり気にしなくなってしまう私たちだからこそ、ふと思い出した時には「ラッキー!」と思って、素直に想いを伝えるのが良いだろう。

 


 (2020-03-28)

 

知的、あるいは感情的なお尻の拭き方について

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 「常識」を語る上で欠かせないのはやはりウンコの仕方であるし、ケツの拭き方である。


 私たちは様々な常識に縛られて生きているが、それらは往々にして暗に示されるものであるし、時代や地域、あるいはコミュニティによってやや細分化された異なる“常識”があるので、しばしば言われるのは「人の数だけ常識がある」あるいは「あんたの常識=世間の非常識」というような諦めにも似た嘲笑である。


 しかしながら私たちは私たち自身の身の安全と豊かで実りある生活を守るために知恵をつけ、国家を形成し、法を整備して来た。


 そしていつしか「安全に暮らしたい」という欲求はその精神性を高めていき、ついには「俺様が世界のルールブックだ」というところにまで行きついてしまった。


 ところで多くの人々が勘違いをしているのが、精神的な発達、あるいは知的生命体としての進化とさえ呼べるようなパラダイムシフト(もちろんそれは人類全体を巻き込む規模でも、私たち一人ひとりの内的な宇宙に限定された規模においても起こり得る)というものは不可逆的かつ直進的であるという幻想である。


 例えばファッションの世界では「流行は繰り返す」というのが定説になっているようであるが、精神的な発達や知の発展についても同様のことが言える。


 何につけ大切にしたいのは「似ているけれど少し違う」というポイントである。


 ドイツの建築家が遺したあまりにも有名な言葉を借りるまでもなく、私たちは同じ誤ちを何度も繰り返しながら、それでも前回までとは明らかに違って見える“些細なこと”を懸命に(あるいは賢明に)捕まえながら次のフロアへと進んでいくのである。


 知見の蓄積だけでは事足りないのは、私たちが知的生命体であり、且つ感情の動物「でもある」からである。


 もしも私たちに感情というものがなかったら、と考えてみたことはあるだろうか。


 ただし、多くのSF映画が描いて来た通り、私たち人類に(他の知的生命体がこぞって羨む)固有の価値があるとしたら「感情がある」の一点突破である。


 私たちはこの広い大い宇宙の中で何の因果か感情という極めてユニークなスキルを獲得し、その働きによってテクノロジーを発展させ、絵を描き、漫才を楽しんできた。


 そして、「私とあなたは違うんだ」ということも、少しずつではあるが分かってきたような気がしてきている。


 しかし何事においても過渡期というものは存在するし、して然るべきであるし、なんなら「世界には過渡期しか存在しない」とも言える。


 現在私たちが身を置くこの時代、この状況は、とても多くの事柄の過渡期が極めて複雑に重なり合った状態であるように体感されるであろう。


 自然科学に対する常識、資本主義に対する常識、人権意識に対する常識、人体と健康に対する常識、発達と教育に対する常識、テクノロジーに対する常識など、私たちは今、様々な分野に対して向けてきた「内なる常識」を変革すべきタイミングの上に点在している。


 例えば「本家」や「分家」という言葉を聞いたことがあるだろうか。


 そう、令和においてはそんな感じなのである。


 地方ではあまりにも日常であり生活の一部である「本家/分家問題」が、都市部の特に若年層においては既にその存在さえ認知されておらず、概念そのものが消失しているのである。


 しかしそのような事態は日常生活において特段意識されない。


 私たちは普段そのようなことを考えない。


 私たちは同じ日本人を相手取ったらば「同じような見た目をしているのだから同じような価値観の下に暮らしているのだろう」と考える。


 しかし実態はどうか。


 私たちは一人ひとりが異なる価値観の下に暮らしており、内包する文化も、他者へと振りかざす常識でさえも根本から異なる存在なのである。


 それが最も顕著に表れるのが「ウンコの仕方とケツの拭き方」である。


 これは比喩でも何でもなく、ウンコの仕方そのもの、ケツの拭き方そのものの話である。


 私の内には「ウンコはこうするもんだ」「ケツはこう拭くもんだ」という極めて根源的な常識があり、ついには「自分のウンコの仕方/ケツの拭き方こそがグローバルスタンダードである」という錯覚にさえ陥っている。


 あなたもそうでしょう。


 あなたもあなたの「ウンコの仕方/ケツの拭き方」がとても一般的なものであるかのように感じられていたでしょう。


 私たちは自己正当化の化け物であるのでそれも仕方のないことなのだけれど、少し冷静に考えてみれば「もしかしたら私の仕方は特殊かもしれない。少なくともその可能性はある」というところにたどり着けそうなものではあるのだが、思い込みとはげに恐ろしきものである。


 だってあなた、自分以外の人がウンコしているところを見たことがありますか?


 自分以外の人がケツを拭いているところ見たことあるんですか???


 もしないのであれば、どうして自分の仕方が一般的なものであると判断されたのか。


 まさかこの期に及んで「常識的に考えて」なんて……


 言わないですよね?常識的に考えて。

 

 

 (2020-03-11)

 

おまけ

 

私のトイレットペーパーの取り方はこう↓

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しかし世の中にはこういった取り方をする人もいる↓

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あなたはどっち派かな?

 

 

ミニスカートのある生活、あるいはお節介な宇宙人について

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 高校生くらいになるとあまりに性欲が高まり過ぎて毎日朝から晩まで基本的に前屈みで生活することになるとしても、やはり学校の授業や勉強というものを「義務」や「課題」として無感情に処理してしまうことの勿体なさと言ったらない。


 というのも、高校生ともなると課題文として小林秀雄などを普通に読むようになる訳で、それって大人たちが自分自身の個人的な学びとしてお金と時間を割いてでも読んでいきたい本であり文章な訳だ。


 なんて贅沢な時間だろう!


 “先生に言われて、仕方なく小林秀雄を読む”


 そんな贅沢な生活があるかよ。


 もちろんミニスカートを履いたギャルが当然のように毎日自分と同じ教室にやって来て当然のように彼女たちと一緒に授業を受けて何なら当たり前のように毎日一緒にお弁当を食べることの“価値”を全く理解していないクソガキ共にはそれが大人たちにとってどれだけ贅沢な時間かなんて思い至るはずもなかろうし、そもそも私のブログの読者にはJKは居ても男子高校生は一人も居ないので彼らに向けたメッセージは全く以て無価値である。


 さて、ちょっと想像してみて欲しい。


 あなたの家に、宇宙人がやって来た。


 彼らは太陽系の外側からやって来た五次元の生命体で、我々を遥かに超えた未知のテクノロジーを所有している。


 もちろん精神面においても我々の理解の及ばぬ次元にまで発達をしていて、争いはおろか愛や幸福さえも超越する存在に進化している。


 そんな宇宙人が目の前にやって来て、あなたに向かってこう言った。


 「キミたちの文化はあまりにも粗野で野蛮で見るに耐えない。キミたちの文化はワレワレから見れば全くもって無価値である。ワレワレが色々と教えてあげるからワレワレに倣いなさい」


 さあ、彼らの言葉をあなたはどんな気持ちで受け止める?


 それともそんな提案は到底受け入れられないかな?


 ではここでもう一度考えてみて欲しいのだけれど、果たして私たちはこの宇宙人と同じことをした経験はないだろうか。


 「宇宙人」を「自分」に置き換えて考えてみるとどうだろう。


 例えば成人式に木のツタで足首を括ってバンジージャンプをする国や、その国に住む人々のことを、どのような視点からワレワレは見つめるか。


 例えば植物由来の粉を「魔除け」と言って額に塗る国や、その国に住む人々のことを、どのような視点からワレワレは見つめるか。


 私たちは自分たちが思っているよりもずっとお節介な生き物である。


 何となく自分よりも劣っていたり遅れていたりするように見える人や物事に対して「お手伝いしましょうか?」と言いたくなってしまう性根を持った生き物である。


 そのような特性は適切に振る舞われれば美徳となり得る一方で、ともすれば他者の尊厳を踏みにじり心を土足で踏みつけて安全靴で自尊心を蹴り上げ、本来かけがえのないはずの魂を無自覚に損なわせる可能性を孕んでいる。


 しかしながら学校の授業を良く聞き、課題文をきちんと読んで理解し人生の学びとしていた者は、社会に出るに際して既にこういった場面での振る舞い方を心得るに至っている。


 もちろんそのような資質は勉強によってではなく経験によって体得される場合もあるが、そのような指摘に一々目くじらを立てていたら生きるのが苦痛になってしまうし何事においても適当が一番、何よりもまずはリラックスが大切である。


 さてこれはきちんと学校の授業を聞いていた者にとってはあまりにも当たり前の自明の理であり、人間存在とその文化を多少なりとも理解するためには基礎基本的な了解事であるのだが、ご存知でない方のための太字にしておくと文化の持つ価値に優劣は無く、どのような文化であってもそれらの内包する価値は同等である。


 「古い/新しい」という捉え方はもちろんあり得る。

 

 江戸時代の日本で上演されていた歌舞伎と、現代のニューヨークで上演されているナラティブパフォーマンスでは、どちらが古くてどちらが新しいか。当然歌舞伎の方がその発祥は古くナラティブパフォーマンスの方が相対的には新しい。


 しかし「古い」=「価値が低い」ということはない。


 そして「新しい」=「価値が高い」ということもない。


 そのような考え方は現代に生きる人間の弱き心が生み出した幻想である。


 最も危険であるのは、「文化的に未発達である国や人間に対しては、より文化的に発達している自分たちが指導・教育を施さねばならない」という考え方である。


 そのような考え方は危険思想であるのだが、もしかしたら見かける機会があるかもしれない。


 しかし宇宙人の例を思い出して欲しいのだが、文化的により発達した存在からの指導・教育の押し付けというものは「クソくらえ」なのである。


 もちろん反重力やダークマターの活用方法、タイムトラベルやワームホールの仕組みに関しては今すぐにでも伝授して欲しい。


 「技術/知識」と「文化/営み」は違うのである。


 それを理解していれば、夫が泣きながら家を飛び出していくという事態も回避することが可能である。


 もちろん悪気がないのは知っているのだけれど、私からするとそれは「技術/知識」の伝授ではなく、「文化/営み」の否定であるように感じられてしまうのだ。


 異なる環境で育った二人には、それぞれの心と身体に異なる文化が根付いている。


 それを尊重せずに、「だからあんたはダメなんだ」「そういうところが義母にソックリで吐き気がする」「次に電気消し忘れたら離婚」「毎朝ゴミを捨て忘れるゴミ」などと罵倒するのは、どうだろう。

 

 いささか宇宙人的ではなかろうか。

 

 

(2020-03-07)

質の高い睡眠、あるいは丁寧な前戯が自慢のゴリラ

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 コミュニケーションにおいて最も難易度が高い表出行動って何だろう?と考えてみたら、最初に思い浮かんだのは「マウントを取らずに適切な批判を行うこと」であった。


 「マウンティング」という言葉がいつ頃から流行し始めたのか定かでないが、皆ちょっと異常なくらいに「マウンティング」が好きで、それはするのも好きなら指摘するのも好きであるという意味だが、だからこそあっという間に市民権を得ることに成功し、瞬く間に常用語となってしまった。


 新しい言葉に触れるということは、新しい価値観/概念に触れるということである。


 私たちは新しい言葉に触れた途端に街中の「それ」を認識するようになり、またその数があまりに多いものだから「今までその存在に気づかなかった/気にしなかった自分に驚く」という体験を得て、それを得意げに他者に話して聞かせることによって絶頂を得る生き物である。


 そのような暮らしを営んでいる私たちにとって、「マウンティング」という言葉の登場はあまりにもカモネギであった。


 私たちはかねてよりマウンティング的な行為を無意識的に忌み嫌っていたし、太古からマウンティング的な行為に格別の快感を覚えていた。


 ユビキタス社会において高度に発達した私たちに残された数少ない原始的な衝動の発露の内、最も身近で最も接触頻度の高く、そして最も突きたくなる魅惑的な玩具、それがマウンティングだったのである。


 さて快感というものは高次にも低次にも得ることができる。


 例えば一生懸命に勉強をして学年で一番を取った際に得られる快感はどのようなものであろうか。


 高次には「自分自身との約束を果たすに至った」「怠惰であることを忌避し、理性的に振る舞うことが叶った」という側面において快感を得ることができるであろう。


 また低次には「俺以外の人間は全員バカだ」という側面において突出した快感を得るに至るであろう。


 そこから分かることは、快感の次元は「それが生じた行為/現象」にではなく「個人の心理/精神」に依存する、ということである。

 

 またその場合において学力や知性そのものについては全く以って関係がなく、むしろ学力や知性を獲得する過程において生じた心理的な抑圧の塩梅にこそ重要な秘密が隠されているのかもしれない。


 原始の衝動に理性で抗う困難さは私たちの良く知るところである。


 私が「痩せなきゃ、痩せなきゃ」と言いながらプリンアラモードを頬張るのはIQが低いからでもなければ所得が低いからでもない。糖が脳に直接クるからである。


 私たちの表出する言動は突き詰めればその全てがコンプレックスの発露である。


 髪型も服装も化粧も香水も、話し方も顔つきも声色も滑舌も、体型も歩き方も座り方も無駄毛の処理も、全ては理想と現実、憧れと妥協の均衡点上に揺れるヤジロベエである。


 自分が何者であるかさえイマイチ自信の持てない人間存在が他者と空間を共有し密集して暮らしているのが社会である。そのような環境の中で、どうして自分と他人を見比べることなしに居れようか。


 私たちは過度なストレスに晒されていて、日々の生活には、ちょっとした快感が必要である。


 また私たちには「自分の心を護る」という大切な仕事があり、私たちの表出する無意識的な言動においてはそのような作用が多分に含まれていることは既に知られてるところである。


 「だからと言ってマウンティングによって他者を傷つけることは許されない」


 そんな発言にこそ強烈な快感が伴い、そんな発言にこそ自身の心を護る効果が付与されるのである。


 相手にマウントをかけることなくマウンティング批判を遂行するのは極めて困難である。

 

 例えば「メタ認知」という概念があり人間社会のごく一部においては人気があるが、マウンティングの滑稽さを語る上でメタ認知は格好の題材である。


 メタ認知とは世阿弥でいうところの「離見の見」のことで要するに自己を含んだ状況一般をいかに客観的に認知し得るかというどんぶり勘定の主観、結局は主観なのであるが、ここで重要なポイントとなるのは各個人のメタ認知能力について客観的かつ具体的に観測する方法がないのでいくらでも言い値で勝負することができるという点である。


 例えばもし私とあなたがメタ認知の能力を競った場合、私とあなたは互いに「俺の方がお前よりも高い視点から俺たちを見れてるぅ〜!から俺の勝ちぃ〜!」と永遠に言い張り合ったまま歳をとり、死んでいく訳である。


 時には自分の友人などを連れてきて味方をさせたり、中立な人間を連れてきてジャッジをさせたりもするだろうが、観測が主観に帰属する限り永遠に結果は変わらない。


 さて、私たちは何故マウンティングを受けると不愉快な気持ちになるのか。


 答えは簡単、「相手よりも自分の方が劣っているなんてこれっぽちも認めらんないから」である。


 青春の夏の昼下がりに彼女の太ももに零れたほんの僅かな三ツ矢サイダーが世界の全てであった私の爽やかさを以ってしても、自分が見下している相手に見下されたりなんかしたら血尿を垂れ流しながら必死こいて食って掛かるというものである。


 もっと嫌なのが、「いやいや、あんたわざわざマウントとって来なくても俺はあんたを最初から尊敬してるし誰がどう見たって俺よりあんたの方が明らかに上だよ!」というような尊敬すべき人が何故だか知らんがめちゃくちゃマウンティングしてくるパターン。


 何度でも言うが、快感の次元は「それが生じた行為/現象」にではなく「個人の心理/精神」に依存するのである。


 もし私たちの心に一切の問題がない場合、私たちは他者に対してマウンティングをかけることもなければ他者からのマウンティングに心を痛めることもない。


 もし私たちが他者に対してマウントをとってしまうのなら、もしくは私たちが他者からのマウンティングに対してネガティブな感情を覚えてしまうのならば、それは枕の高さが合っていないせいかもしれない。

 

 人間関係、あるいは対人コミュニケーションにおいて何かしらの問題を抱えていたり、人間社会の中で健康的なメンタリティを維持したいと願う場合、私たちが選ぶことのできる具体的な方法にはいくつかの種類があるが、大きく「知」と「体」に分ければアプローチの属性は二種である。


 「知」に属するアプローチはその「仕組み」を可能な限り上質に理解する方法で、心理学、社会学社会心理学文化人類学、スピーチコミュニケーション学、演劇学などの知見を統合すれば、人間の表出行動一般についてのある程度の理解を得ることができるだろう。


 対象について深く知ることでとてもフランクに対象の営みを捉えることができるようになるのでオススメなのだが、少しだけ時間と労力がかかるのでいまいち汎用性がない。


 一方で「体」へのアプローチによって状況を改善する方法については、その過程においてあらゆる苦痛が軽減される可能性があるため比較的ポジティブである。


 いよいよ私たちにとって重要であるのは食事と睡眠と運動である。


 それらは甲乙つけ難く重要であるにも関わらず、睡眠についてその重要性が指摘され、世間に認知され出したのはごく最近のことである。


 食事と運動に関しては学校でも行われる行為であるので学ぶ機会に恵まれているが、こと睡眠に関しては豊かに学ぶ機会に恵まれぬまま私たちは大人になってしまった。


 一説には長時間眠った方が都合が良いタイプと短時間で構わないタイプとがいるらしいが、自分が「本当は」どちらなのかについては大変に興味がある。


 最近では質の高いオーダーメイド枕が5千円前後から買えるようなのだが、本ブログにおいては特定の企業に肩入れするつもりはないので各自で調べて欲しい。


 そして良いのがあったら教えて欲しい。


 自分に合った枕が欲しい。


 あと使い勝手の良い水筒。


 あと財布と、


 財布の中身。

 


 (2020-02-28)

ありがとう、あるいは自販機について

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 完璧な人間など居ないのだから、誰だって他者に迷惑をかけながら生きている。


 もちろん私たちはそれを良しとせず、なるべくなら誰にも迷惑をかけないように、出来る限りミスをしないように一生懸命暮らしている。


 しかしそれでも「ついうっかり」、「すっかり忘れていた」を繰り返してしまうのが私たち人間という生き物である。


 自然界に目を向ければ、私たち以外の動植物は「ついうっかり」だとか「すっかり忘れていた」というようなミスをほとんど犯さずに暮らしているようにも見える。


 例えば親鳥が、「ついうっかり子どもたちにエサをやるのを忘れてた!」などということがあり得るか。


 なんとなく、なさそうである。


 では働きアリが、「ついうっかり命じられていた仕事をやるのを忘れてた!」などということはあり得るだろうか。


 あったとしても、なんとなく例外っぽい。


 では何故私たちだけがあれもこれもついうっかり、すっかり忘れてしまうのだろうか。


 それはもちろん、やらなければならないことが他の種に比べて異常に多いからであり、そしてまた「何かあっても謝れば許してもらえる」ということを最早遺伝子のレベルで了解しているからであろう。


 私たちは地球上において最も発達した生物であり、それは思い上がりでも何でもなく純然たる事実である。(もちろん私たちより発達した知的生命体が地球内部に地下帝国を築いている可能性もあるが、今回は触れない)


 そんな私たちに課せられた日常的課題の総数は自然界における動植物の比ではない。


 一日の内に処理せねばならぬ仕事量は分野領域を越えて、一人の(ちっぽけな)人間が背負える分量を遥かに超えていると言って良いだろう。


 だからこそ私たちは毎日疲れ切っていて、足湯やホットアイマスクやサプリメントやリンパマッサージ無しには生きられない身体になっているのである。


 そのような生活の中で、私たちは誰か近しい他人(それは時に会社の同僚であり、また別の時には親兄弟のことであるが)に自身の課題の一部を直接、あるいは間接的に肩代わりしてもらうことによってギリギリ人間性を保っている。


 現代ほど発達した社会において「誰にも頼らず自分一人で生きる」というのは極めて困難である。


 私たちはそれを良く理解しているし、自分自身がいつも他者に頼って生きているからこそ、自分だって誰かの頼りになりたいと思って生きている。


 しかしそんな善性動機からの言動でさえ、やはり上手にできなかったり、間違って伝わってしまった結果相手を怒らせてしまったりするのだから、コミュニケーションというものは私たちが考えている以上に大変な作業なのである。


 「ありがとう」と「ごめんなさい」は人間社会で生きる上で最低限備えていたい二大言語表現である。


 この二つさえマスターしていれば、あとは「美味しい」だけ追加すれば生きていくのに困らないだけの語彙力は補完されるだろう。


 ただし、認知と印象の形成において言語表現が優先されるのは緊急時においてであり、平時において優先されるのはやはり非言語表現である。


 つまり、「何を言うか」ではなく「どんな風に言うか」が重要だということである。


 例えば「ありがとう」と言う場面において、「ありがとう」という文字情報はあまりに当然の記号であるため印象の形成に対する影響はほぼ無く、むしろ「どのような顔つきで」「どこをどれだけ見つめて」「どれくらいの声量で」「どれくらいの距離感で」というような言語以外の要素が私たちの“感謝”の度合いや印象を決定づけるのである。


 もちろん、“謝罪”においても全く同じことが言える。


 だから時たま「こんなに謝っているのに何故許してくれないんだ!」と怒り狂っているジジイを見かけるが、そういった場合の可能性としては確かに「ごめん」という言語表現は繰り返し表出しているが目つきや顔つきや態度においては「心から謝っているようには見えない」という印象が伝わってしまっている可能性がある訳で、そこには「コミュニケーションにおいては相手に伝わったものが全て」の原則がみっちりと詰まっているのである。


 謝っている「つもり」、感謝している「つもり」など、私たちは無意識の内に様々な「つもり」を他者に押しつけて生きている可能性があり、だからこそ自分の謝り方や感謝の仕方が適切なものであるかどうかについて意識的に意識する必要があるのである。


 また精神論の全部が全部を馬鹿にするのも少々もったいない。


 特に表情や視線は感情と深く結びついたデバイスである。だから「心を込めて」謝ったり感謝したりすることは、直接的に極めて適切な表情や視線を表出するに至る方法論のひとつであったりするのである。


 逆に言えば、実は「悪かった」とは思って居なかったり、感謝の気持ちがなかったりした場合には、それも表情や視線には明瞭に表れてしまうのである。


 私たちは私たちが誰のお陰で不自由なく暮らせているのか、楽しく、また幸せに過ごせているのかを改めて考えるべきであり、ふと胸に感謝の気持ちが芽生えた時には心を込めて相手に感謝を伝えるべきである。


 ありがとう、PayPay。


 お陰様でジュースをーーー


 “半額”で買えるようになりました。

 

(2020-02-21)

歯を磨きながらできること、あるいはそのタイミング

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 朝が一番忙しい。


 シャワーを浴びなくちゃ、布団を畳まなくちゃ、脱いだ服を畳まなくちゃ、コンタクトをつけなくちゃ、歯を磨かなくちゃ、ご飯を食べなくちゃ、髪を乾かさなくちゃ、鞄の中身をチェックしなくちゃ、ゴミをまとめなくちゃ、トイレに行かなくちゃ、トマトに水をやらなくちゃ、、、


 そんな風にくちゃくちゃと隙間なく次から次へと行動を起こしていかないと電車には間に合わないし、間に合わせるためにはすごく急がなくてはならない。

 

 私たちは絶対に駅まで走ったり階段を駆け上がったりしたくないし、見知らぬジジイの肩に触れて雑な舌打ちをされるのはまっぴら御免なのである。


 しかしそうやって多くの人間性がドタバタと日常性に忙殺されているこの朝の時間帯、本当はやった方が良いのにも関わらず、やらずに済ませてしまっている作業が実はひとつあるんじゃなかろうか。


 それは良くよく考えてみれば明らかにやった方が良さそうであるのに、皆がついうっかり忘れてしまっている種類のものである。(もちろん私たちは大切なことから順に忘れていく)


 さて私たちは毎朝「その日の自分の心の状態」をきちんと点検する必要があるだろう。


 心の状態を正確に把握することは即ち自身の行動選択における根拠を持つということであり、それはそのまま「その日一日をどのように過ごすか」という方針づくりに直結する。


 私はこれを朝の歯磨きのタイミングでやるのが良いと思っている。


 起きてすぐではまだ寝ぼけていて身体も怠く、心の状態をきちんと観察するのは難しい。しかしシャワーを浴びて服を着て歯を磨く頃合いになれば、何となく頭も身体も目が覚めてきて、また歯を磨いている間は極めて暇なので何かを考えるのにはもってこいの時間だろうというのが理由である。


 点検の具体的な方法は、例えば「私は今日この心の状態でいつもと同じようにあの地獄的な満員電車を乗り切ることが出来るだろうか、正直に」と、そんな風に心の中で尋ねてみるのである。


 すると不思議なことに、大丈夫な時にはなんの反応もないのだが、ダメな時にはチクリと胸が痛むのである。すごくダメな時にはもちろん反応はずっと大きくなる。


 そうやって自分の心の状態を、身体の反応でもって点検していくのである。


 「今日の心の状態で満員電車に乗るのは厳しい」、「もしも体重を掛けられたら思い切り咳払いをして肩でドンとやってしまうかもしれない」ということであれば、時間をずらせるならばずらして混雑を避けたり、それが難しいようであればマスクにお気に入りのアロマオイルで香りづけをして好きな音楽をいつもより大きな音で聴きながら乗るなどして少しでもストレスを軽減する工夫をしてみると良いだろう。


 また重要なのが、対人コミュニケーションにおける許容度の確認である。


 私たちは自分の人格や性格は不変であるように感じているが、実は他人の言動をどこまで許容でき得るかについてはその日その時の心の状態によって大いに変化するものである。ごく簡単に言うと、「元気な時はそれ大丈夫だけど、今日は具合悪いから許せねえわ」、そんな様なことはしばしば起こり得るのだ。


 さて私たちの身の周りには「お、今日機嫌悪いね、生理?」が口癖であるようなタイプの激烈に嫌な奴というのが居るだろう。嫌な奴という程ではないけれど苦手だな、程度の相手でも結構。歯を磨きながらそんな相手を思い浮かべてみよう。


 そしてそんな相手に対して、今日もきちんと社会性をもって愛想笑いを返すことができるかどうか、自分の心に尋ねてみる。


 大丈夫であればもちろん普段通りで大丈夫。逆に「ちょっと今日はあんまり関わりたくないな」、「場合によっては沸かしたての玉露をぶっ掛けた上でボコボコに殴ってしまうかもしれないな」と思ったら、なるべく顔を合わせないようにして上手に過ごすべきである。どうしても顔を合わせなくちゃいけない、話さなきゃならないというような相手であれば、思い切って「具合悪いアピール」をするのも手である。


 そうやって自分の心の状態に合わせて過ごし方を工夫して、なるべくストレスがかからない状況をつくる、心に負担がかからないように過ごす、というのがとても大切である。

 

 結果を変えずに過程を変えるというような意識を持つと分かり良いかもしれない。


 例えば「いつも通りの時間に出社する」という結果は変えずに、「電車の時間や乗り方、車内での過ごし方を工夫する」という様に過程だけを変えていくイメージである。


 そういった工夫をその日の自分に合わせて具合良くカスタマイズするためには、やはり「今日の自分には何が耐えられて、何が耐えられないのか」をきちんと把握することが重要であり、その作業こそが今日の自分を、また周囲の人々を守ることに繋がるのである。


 何につけても他人の行動を変化させるのは極めて困難である。しかし自分の行動はすぐにでも変えられ、また誰にも迷惑をかけないようにしながら楽をする方法というのはいくらでもある。


 それは決してズル賢い方法という訳ではなくて、私たちが明るくに楽しく健康に日々を過ごすために必要なことなのであるが、目下私の興味関心は「朝の歯磨きのタイミングいつなの問題」である。


 朝の歯磨きのタイミング、それは朝食の前と後、どちらが正解か。


 朝食の後に歯磨きをすれば、一晩の内に溜まった口内の雑菌を朝食と共に飲み込んでしまうことなるし、


 朝食の前に歯磨きをすれば、食後に歯磨きをせずにパン屑を歯間パンパンに詰まらせたまま家を出ることになる。


 結局、素人考えではどちらも一長一短で気持ちが悪く、最終的に朝食の前後に二度歯を磨くことになるので非常にストレスである。とても耐えられそうにない。


(2020-02-15)