ミニスカートのある生活、あるいはお節介な宇宙人について
高校生くらいになるとあまりに性欲が高まり過ぎて毎日朝から晩まで基本的に前屈みで生活することになるとしても、やはり学校の授業や勉強というものを「義務」や「課題」として無感情に処理してしまうことの勿体なさと言ったらない。
というのも、高校生ともなると課題文として小林秀雄などを普通に読むようになる訳で、それって大人たちが自分自身の個人的な学びとしてお金と時間を割いてでも読んでいきたい本であり文章な訳だ。
なんて贅沢な時間だろう!
“先生に言われて、仕方なく小林秀雄を読む”
そんな贅沢な生活があるかよ。
もちろんミニスカートを履いたギャルが当然のように毎日自分と同じ教室にやって来て当然のように彼女たちと一緒に授業を受けて何なら当たり前のように毎日一緒にお弁当を食べることの“価値”を全く理解していないクソガキ共にはそれが大人たちにとってどれだけ贅沢な時間かなんて思い至るはずもなかろうし、そもそも私のブログの読者にはJKは居ても男子高校生は一人も居ないので彼らに向けたメッセージは全く以て無価値である。
さて、ちょっと想像してみて欲しい。
あなたの家に、宇宙人がやって来た。
彼らは太陽系の外側からやって来た五次元の生命体で、我々を遥かに超えた未知のテクノロジーを所有している。
もちろん精神面においても我々の理解の及ばぬ次元にまで発達をしていて、争いはおろか愛や幸福さえも超越する存在に進化している。
そんな宇宙人が目の前にやって来て、あなたに向かってこう言った。
「キミたちの文化はあまりにも粗野で野蛮で見るに耐えない。キミたちの文化はワレワレから見れば全くもって無価値である。ワレワレが色々と教えてあげるからワレワレに倣いなさい」
さあ、彼らの言葉をあなたはどんな気持ちで受け止める?
それともそんな提案は到底受け入れられないかな?
ではここでもう一度考えてみて欲しいのだけれど、果たして私たちはこの宇宙人と同じことをした経験はないだろうか。
「宇宙人」を「自分」に置き換えて考えてみるとどうだろう。
例えば成人式に木のツタで足首を括ってバンジージャンプをする国や、その国に住む人々のことを、どのような視点からワレワレは見つめるか。
例えば植物由来の粉を「魔除け」と言って額に塗る国や、その国に住む人々のことを、どのような視点からワレワレは見つめるか。
私たちは自分たちが思っているよりもずっとお節介な生き物である。
何となく自分よりも劣っていたり遅れていたりするように見える人や物事に対して「お手伝いしましょうか?」と言いたくなってしまう性根を持った生き物である。
そのような特性は適切に振る舞われれば美徳となり得る一方で、ともすれば他者の尊厳を踏みにじり心を土足で踏みつけて安全靴で自尊心を蹴り上げ、本来かけがえのないはずの魂を無自覚に損なわせる可能性を孕んでいる。
しかしながら学校の授業を良く聞き、課題文をきちんと読んで理解し人生の学びとしていた者は、社会に出るに際して既にこういった場面での振る舞い方を心得るに至っている。
もちろんそのような資質は勉強によってではなく経験によって体得される場合もあるが、そのような指摘に一々目くじらを立てていたら生きるのが苦痛になってしまうし何事においても適当が一番、何よりもまずはリラックスが大切である。
さてこれはきちんと学校の授業を聞いていた者にとってはあまりにも当たり前の自明の理であり、人間存在とその文化を多少なりとも理解するためには基礎基本的な了解事であるのだが、ご存知でない方のための太字にしておくと文化の持つ価値に優劣は無く、どのような文化であってもそれらの内包する価値は同等である。
「古い/新しい」という捉え方はもちろんあり得る。
江戸時代の日本で上演されていた歌舞伎と、現代のニューヨークで上演されているナラティブパフォーマンスでは、どちらが古くてどちらが新しいか。当然歌舞伎の方がその発祥は古くナラティブパフォーマンスの方が相対的には新しい。
しかし「古い」=「価値が低い」ということはない。
そして「新しい」=「価値が高い」ということもない。
そのような考え方は現代に生きる人間の弱き心が生み出した幻想である。
最も危険であるのは、「文化的に未発達である国や人間に対しては、より文化的に発達している自分たちが指導・教育を施さねばならない」という考え方である。
そのような考え方は危険思想であるのだが、もしかしたら見かける機会があるかもしれない。
しかし宇宙人の例を思い出して欲しいのだが、文化的により発達した存在からの指導・教育の押し付けというものは「クソくらえ」なのである。
もちろん反重力やダークマターの活用方法、タイムトラベルやワームホールの仕組みに関しては今すぐにでも伝授して欲しい。
「技術/知識」と「文化/営み」は違うのである。
それを理解していれば、夫が泣きながら家を飛び出していくという事態も回避することが可能である。
もちろん悪気がないのは知っているのだけれど、私からするとそれは「技術/知識」の伝授ではなく、「文化/営み」の否定であるように感じられてしまうのだ。
異なる環境で育った二人には、それぞれの心と身体に異なる文化が根付いている。
それを尊重せずに、「だからあんたはダメなんだ」「そういうところが義母にソックリで吐き気がする」「次に電気消し忘れたら離婚」「毎朝ゴミを捨て忘れるゴミ」などと罵倒するのは、どうだろう。
いささか宇宙人的ではなかろうか。
(2020-03-07)