「心の和室の襖はビリビリ」

古賀裕人のブログ

質の高い睡眠、あるいは丁寧な前戯が自慢のゴリラ

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 コミュニケーションにおいて最も難易度が高い表出行動って何だろう?と考えてみたら、最初に思い浮かんだのは「マウントを取らずに適切な批判を行うこと」であった。


 「マウンティング」という言葉がいつ頃から流行し始めたのか定かでないが、皆ちょっと異常なくらいに「マウンティング」が好きで、それはするのも好きなら指摘するのも好きであるという意味だが、だからこそあっという間に市民権を得ることに成功し、瞬く間に常用語となってしまった。


 新しい言葉に触れるということは、新しい価値観/概念に触れるということである。


 私たちは新しい言葉に触れた途端に街中の「それ」を認識するようになり、またその数があまりに多いものだから「今までその存在に気づかなかった/気にしなかった自分に驚く」という体験を得て、それを得意げに他者に話して聞かせることによって絶頂を得る生き物である。


 そのような暮らしを営んでいる私たちにとって、「マウンティング」という言葉の登場はあまりにもカモネギであった。


 私たちはかねてよりマウンティング的な行為を無意識的に忌み嫌っていたし、太古からマウンティング的な行為に格別の快感を覚えていた。


 ユビキタス社会において高度に発達した私たちに残された数少ない原始的な衝動の発露の内、最も身近で最も接触頻度の高く、そして最も突きたくなる魅惑的な玩具、それがマウンティングだったのである。


 さて快感というものは高次にも低次にも得ることができる。


 例えば一生懸命に勉強をして学年で一番を取った際に得られる快感はどのようなものであろうか。


 高次には「自分自身との約束を果たすに至った」「怠惰であることを忌避し、理性的に振る舞うことが叶った」という側面において快感を得ることができるであろう。


 また低次には「俺以外の人間は全員バカだ」という側面において突出した快感を得るに至るであろう。


 そこから分かることは、快感の次元は「それが生じた行為/現象」にではなく「個人の心理/精神」に依存する、ということである。

 

 またその場合において学力や知性そのものについては全く以って関係がなく、むしろ学力や知性を獲得する過程において生じた心理的な抑圧の塩梅にこそ重要な秘密が隠されているのかもしれない。


 原始の衝動に理性で抗う困難さは私たちの良く知るところである。


 私が「痩せなきゃ、痩せなきゃ」と言いながらプリンアラモードを頬張るのはIQが低いからでもなければ所得が低いからでもない。糖が脳に直接クるからである。


 私たちの表出する言動は突き詰めればその全てがコンプレックスの発露である。


 髪型も服装も化粧も香水も、話し方も顔つきも声色も滑舌も、体型も歩き方も座り方も無駄毛の処理も、全ては理想と現実、憧れと妥協の均衡点上に揺れるヤジロベエである。


 自分が何者であるかさえイマイチ自信の持てない人間存在が他者と空間を共有し密集して暮らしているのが社会である。そのような環境の中で、どうして自分と他人を見比べることなしに居れようか。


 私たちは過度なストレスに晒されていて、日々の生活には、ちょっとした快感が必要である。


 また私たちには「自分の心を護る」という大切な仕事があり、私たちの表出する無意識的な言動においてはそのような作用が多分に含まれていることは既に知られてるところである。


 「だからと言ってマウンティングによって他者を傷つけることは許されない」


 そんな発言にこそ強烈な快感が伴い、そんな発言にこそ自身の心を護る効果が付与されるのである。


 相手にマウントをかけることなくマウンティング批判を遂行するのは極めて困難である。

 

 例えば「メタ認知」という概念があり人間社会のごく一部においては人気があるが、マウンティングの滑稽さを語る上でメタ認知は格好の題材である。


 メタ認知とは世阿弥でいうところの「離見の見」のことで要するに自己を含んだ状況一般をいかに客観的に認知し得るかというどんぶり勘定の主観、結局は主観なのであるが、ここで重要なポイントとなるのは各個人のメタ認知能力について客観的かつ具体的に観測する方法がないのでいくらでも言い値で勝負することができるという点である。


 例えばもし私とあなたがメタ認知の能力を競った場合、私とあなたは互いに「俺の方がお前よりも高い視点から俺たちを見れてるぅ〜!から俺の勝ちぃ〜!」と永遠に言い張り合ったまま歳をとり、死んでいく訳である。


 時には自分の友人などを連れてきて味方をさせたり、中立な人間を連れてきてジャッジをさせたりもするだろうが、観測が主観に帰属する限り永遠に結果は変わらない。


 さて、私たちは何故マウンティングを受けると不愉快な気持ちになるのか。


 答えは簡単、「相手よりも自分の方が劣っているなんてこれっぽちも認めらんないから」である。


 青春の夏の昼下がりに彼女の太ももに零れたほんの僅かな三ツ矢サイダーが世界の全てであった私の爽やかさを以ってしても、自分が見下している相手に見下されたりなんかしたら血尿を垂れ流しながら必死こいて食って掛かるというものである。


 もっと嫌なのが、「いやいや、あんたわざわざマウントとって来なくても俺はあんたを最初から尊敬してるし誰がどう見たって俺よりあんたの方が明らかに上だよ!」というような尊敬すべき人が何故だか知らんがめちゃくちゃマウンティングしてくるパターン。


 何度でも言うが、快感の次元は「それが生じた行為/現象」にではなく「個人の心理/精神」に依存するのである。


 もし私たちの心に一切の問題がない場合、私たちは他者に対してマウンティングをかけることもなければ他者からのマウンティングに心を痛めることもない。


 もし私たちが他者に対してマウントをとってしまうのなら、もしくは私たちが他者からのマウンティングに対してネガティブな感情を覚えてしまうのならば、それは枕の高さが合っていないせいかもしれない。

 

 人間関係、あるいは対人コミュニケーションにおいて何かしらの問題を抱えていたり、人間社会の中で健康的なメンタリティを維持したいと願う場合、私たちが選ぶことのできる具体的な方法にはいくつかの種類があるが、大きく「知」と「体」に分ければアプローチの属性は二種である。


 「知」に属するアプローチはその「仕組み」を可能な限り上質に理解する方法で、心理学、社会学社会心理学文化人類学、スピーチコミュニケーション学、演劇学などの知見を統合すれば、人間の表出行動一般についてのある程度の理解を得ることができるだろう。


 対象について深く知ることでとてもフランクに対象の営みを捉えることができるようになるのでオススメなのだが、少しだけ時間と労力がかかるのでいまいち汎用性がない。


 一方で「体」へのアプローチによって状況を改善する方法については、その過程においてあらゆる苦痛が軽減される可能性があるため比較的ポジティブである。


 いよいよ私たちにとって重要であるのは食事と睡眠と運動である。


 それらは甲乙つけ難く重要であるにも関わらず、睡眠についてその重要性が指摘され、世間に認知され出したのはごく最近のことである。


 食事と運動に関しては学校でも行われる行為であるので学ぶ機会に恵まれているが、こと睡眠に関しては豊かに学ぶ機会に恵まれぬまま私たちは大人になってしまった。


 一説には長時間眠った方が都合が良いタイプと短時間で構わないタイプとがいるらしいが、自分が「本当は」どちらなのかについては大変に興味がある。


 最近では質の高いオーダーメイド枕が5千円前後から買えるようなのだが、本ブログにおいては特定の企業に肩入れするつもりはないので各自で調べて欲しい。


 そして良いのがあったら教えて欲しい。


 自分に合った枕が欲しい。


 あと使い勝手の良い水筒。


 あと財布と、


 財布の中身。

 


 (2020-02-28)