「心の和室の襖はビリビリ」

古賀裕人のブログ

ありがとう、あるいは自販機について

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 完璧な人間など居ないのだから、誰だって他者に迷惑をかけながら生きている。


 もちろん私たちはそれを良しとせず、なるべくなら誰にも迷惑をかけないように、出来る限りミスをしないように一生懸命暮らしている。


 しかしそれでも「ついうっかり」、「すっかり忘れていた」を繰り返してしまうのが私たち人間という生き物である。


 自然界に目を向ければ、私たち以外の動植物は「ついうっかり」だとか「すっかり忘れていた」というようなミスをほとんど犯さずに暮らしているようにも見える。


 例えば親鳥が、「ついうっかり子どもたちにエサをやるのを忘れてた!」などということがあり得るか。


 なんとなく、なさそうである。


 では働きアリが、「ついうっかり命じられていた仕事をやるのを忘れてた!」などということはあり得るだろうか。


 あったとしても、なんとなく例外っぽい。


 では何故私たちだけがあれもこれもついうっかり、すっかり忘れてしまうのだろうか。


 それはもちろん、やらなければならないことが他の種に比べて異常に多いからであり、そしてまた「何かあっても謝れば許してもらえる」ということを最早遺伝子のレベルで了解しているからであろう。


 私たちは地球上において最も発達した生物であり、それは思い上がりでも何でもなく純然たる事実である。(もちろん私たちより発達した知的生命体が地球内部に地下帝国を築いている可能性もあるが、今回は触れない)


 そんな私たちに課せられた日常的課題の総数は自然界における動植物の比ではない。


 一日の内に処理せねばならぬ仕事量は分野領域を越えて、一人の(ちっぽけな)人間が背負える分量を遥かに超えていると言って良いだろう。


 だからこそ私たちは毎日疲れ切っていて、足湯やホットアイマスクやサプリメントやリンパマッサージ無しには生きられない身体になっているのである。


 そのような生活の中で、私たちは誰か近しい他人(それは時に会社の同僚であり、また別の時には親兄弟のことであるが)に自身の課題の一部を直接、あるいは間接的に肩代わりしてもらうことによってギリギリ人間性を保っている。


 現代ほど発達した社会において「誰にも頼らず自分一人で生きる」というのは極めて困難である。


 私たちはそれを良く理解しているし、自分自身がいつも他者に頼って生きているからこそ、自分だって誰かの頼りになりたいと思って生きている。


 しかしそんな善性動機からの言動でさえ、やはり上手にできなかったり、間違って伝わってしまった結果相手を怒らせてしまったりするのだから、コミュニケーションというものは私たちが考えている以上に大変な作業なのである。


 「ありがとう」と「ごめんなさい」は人間社会で生きる上で最低限備えていたい二大言語表現である。


 この二つさえマスターしていれば、あとは「美味しい」だけ追加すれば生きていくのに困らないだけの語彙力は補完されるだろう。


 ただし、認知と印象の形成において言語表現が優先されるのは緊急時においてであり、平時において優先されるのはやはり非言語表現である。


 つまり、「何を言うか」ではなく「どんな風に言うか」が重要だということである。


 例えば「ありがとう」と言う場面において、「ありがとう」という文字情報はあまりに当然の記号であるため印象の形成に対する影響はほぼ無く、むしろ「どのような顔つきで」「どこをどれだけ見つめて」「どれくらいの声量で」「どれくらいの距離感で」というような言語以外の要素が私たちの“感謝”の度合いや印象を決定づけるのである。


 もちろん、“謝罪”においても全く同じことが言える。


 だから時たま「こんなに謝っているのに何故許してくれないんだ!」と怒り狂っているジジイを見かけるが、そういった場合の可能性としては確かに「ごめん」という言語表現は繰り返し表出しているが目つきや顔つきや態度においては「心から謝っているようには見えない」という印象が伝わってしまっている可能性がある訳で、そこには「コミュニケーションにおいては相手に伝わったものが全て」の原則がみっちりと詰まっているのである。


 謝っている「つもり」、感謝している「つもり」など、私たちは無意識の内に様々な「つもり」を他者に押しつけて生きている可能性があり、だからこそ自分の謝り方や感謝の仕方が適切なものであるかどうかについて意識的に意識する必要があるのである。


 また精神論の全部が全部を馬鹿にするのも少々もったいない。


 特に表情や視線は感情と深く結びついたデバイスである。だから「心を込めて」謝ったり感謝したりすることは、直接的に極めて適切な表情や視線を表出するに至る方法論のひとつであったりするのである。


 逆に言えば、実は「悪かった」とは思って居なかったり、感謝の気持ちがなかったりした場合には、それも表情や視線には明瞭に表れてしまうのである。


 私たちは私たちが誰のお陰で不自由なく暮らせているのか、楽しく、また幸せに過ごせているのかを改めて考えるべきであり、ふと胸に感謝の気持ちが芽生えた時には心を込めて相手に感謝を伝えるべきである。


 ありがとう、PayPay。


 お陰様でジュースをーーー


 “半額”で買えるようになりました。

 

(2020-02-21)